週報巻頭言

 そ だ て て く だ さ る 神 さ ま 

 

コリントI・3:6-7     (牧師、松田和夫)

◇今朝の礼拝は、子ども祝福礼拝です。神様に愛され、人に愛されて、神様の御心をいつも心に抱いて成長していくことができますように、と皆で祈りたいと願います。◇子どもたちの成長、それが根本的には神の愛によってなされるものであることを、わたしたちは信じます。親の子育てといっても、そこから離れて自分の思いのみでなされるときに、さまざまな問題が出てくるのではないでしょうか。子どもは親の所有物ではない。神様から授かるものですから、神様の御心にかなうよう育てられれば、と願います。◇コリント教会に宛てたパウロの書簡で、パウロは信仰の成長について告げています。コリント教会員の信仰が、まだ成熟していないことが、信仰における派閥のような現象になって現れたことに、パウロは警告を発しています。人間的な、この世的な思いから、人を見て神への信仰を見失うということが起こらないように、と。◇信仰を育ててくれるのは、あくまでも神であること、人の力によらないことを。信仰を育ててくれるのは、植える者でもなければ、水を注ぐ者でもない、神ご自身であるということです。◇子どもたちが育っていくときも、親の力を過信せず、子どもの力に過ぎたる望みをおかず、育ててくださる神様の御心を信じて、御心を求めていくところに、おのずと成長がなされていくのではないでしょうか。神の祝福は、人の業によらずです、それをまず心におきたく願います。

JJ 御 霊 を う け る 器 と し て JJ

ルカ1:4655   2013.12.1      (牧師、松田和夫)

◇12月に入りました。講壇の上にクリスマスツリ-が飾られ、アドベントクランツも備えられています。今週から待降節に入ります。ちまたにはクリスマスをお祭りとして迎える喧騒があったりしますが、この時期を、わたしたちの心は、日々静まって救い主の来られることに思いをひそめたいと願います。◇救い主を宿すことになると、み使いに告げられたマリアのことを思います。驚くべき主の御言葉を告げられた時のマリア、その驚きと戸惑い。思い巡らすマリア。ルカ福音書はその時のマリアの姿を、ある意味でリアルに描きます。「わたしは男の人を知りませんのに」と。けれども「神にできないことは何一つない」と言われて、マリアは「お言葉どおり、この身になりますように」と答えます。◇わたしたちは、このマリアの言葉に、主に対するへりくだり、ゆるぎない信頼を見ます。ただ受け容れるだけのマリアの姿勢に、何か厳粛なばかりの神との応対を見ないでしょうか。わたしたちは、主から受ける御言葉を、このように真にへりくだって、信頼し委ねていくことができているでしょうか。◇神谷美恵子さんの詩を思います。「私はうつわよ/愛をうけるための/私はただのうつわ/いつもうけるだけ」(『うつわの歌』)。受けることは満たされることでしょう。主の愛に、主の御霊に、主の恵みに。「そしてまわりにこぼれるの」(同)と、あります。愛は、おのずとあふれていくものでしょう。

JJJ             JJJ

 マタイ1:18-25     (牧師、松田和夫)

◇イエス・キリストの受胎告知は、ルカ福音書では、マリアに天使ガブリエルが告げます。マタイ福音書では主の天使がヨセフに夢の中で告げています。共通して言えることはいくつかあります。イエスがダビデの家系に生まれること、ベツレヘムで生まれていること、そしてマリアは聖霊によって身ごもっていることなどです。◇マリアとヨセフ、それぞれの場合に主が来られることのお告げには、深くわたしたちを黙想に誘うものがあるようです。神の子が与えられるということ、そこには人間には計り知れない神のご意志と御計らいとが隠されています。◇ヨセフの夢に現れた主の天使がヨセフに告げたことは、産まれる子が世の罪を救う「救い主」であること、また、その方が「インマヌエル」(「主がともにおられる」)と呼ばれる方であることでした。主イエス・キリストは、救い主として来られた、そして今もわたしたちと共におられる方です。◇ヨセフは、主の天使の言葉に、聖霊の働きに深く促され、身ごもったマリアを受け入れます。彼は「正(義)しい人」であったと、記されています。神の御心にかなった人として、ヨセフは、「神に用いられた人」と言っていいでしょう。彼ヨセフこそは、この世でもっとも大きな働きをした人といってもいいかもしれません。不思議なことに、ヨセフの名はこの後、聖書の中にほとんど出てきません。そこに、わたしたちは何かを示されているように思います。

JJJ             JJJ

 

イザヤ書111-10 2013.12.15     (牧師、松田和夫)

◇イエス・キリストがこの世に来られた出来事には、神の聖なる霊がみなぎっています。マリアにしてもヨセフにしても、イエスの生誕を告げ知らされるところには聖霊の力が大きく包んでいる雰囲気があります。救い主イエス・キリストの生誕、キリスト者はそれを、神がわたしたち人間のもとに遣わされた「平和の王」の到来と信じます。◇それは、預言者イザヤを通して、イエスが来られる700年も以前から告げられていた神の約束でした。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。」(イザヤ11:1)イエス・キリストは「主の霊」がとどまっているお方でした。神の聖なる霊です。彼は、「主を畏れ敬う霊」に「満たされ」たお方でした(イザヤ11:3)。それは、この地上に真の意味での「平和」(神のシャロ-ム)をもたらす「平和の王」であったのです。◇その平和の世界を預言者イザヤは、じつに驚くべき霊的な世界として描いています。そこには、人間の現実世界には考えられもしない創造の世界、まったき新しい世界が描かれています。それは、人間の想像力が描く単なるユ-トピアなのではありません。神の聖なる霊に導かれた、啓示された世界です。◇イエス・キリストを迎えるということ、それは、新しい世界へとこの世界が変えられ、自分が変えられていく、そのような驚くべき体験を、主の希望のうちに与えられる出来事なのです。

JJJ  (ことば)   と       JJJ

 

 ヨハネによる福音書114   2013.12.22       (牧師、松田和夫)

◇「言は肉となってわたしたちの間に宿られた。」「言」を「ことば」と読ませています。ギリシア語の原文では「ロゴス」です。これは新約聖書では、だいたいキリスト教の使信(教え)とほとんど同じ意味で多くは使われています。それは、神から来たもの、神の賜物、神について語るもの、といった意味です(W・バ-クレ-『新約聖書のギリシア語』)。◇しかし、ヨハネ福音書では、独特の用語となっています。そこでは「言」とは、神と共にあった、神であったと記されます(1節)。そしてイエス・キリストとは、この「言」が人となった方であると言われているのです。主イエス・キリストがわたしたちの間に来られて、その生涯を共にされた、そのことが「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」と証言されています。◇イエス・キリストの生誕の使信は、神が独り子イエスを遣わされたことであると言うのです。そこには、たいへん深い意味合いが湛えられています。「肉」とは、わたしたち人間の現実の在り方ですが、神なる方がなぜ、人間と同じにならなければならなかったか。それは、ひと言で言えば、御自分の被造物たる人間への「神の愛」のほとばしりであったことを、はるか旧約聖書の神の言葉は告げています(出エジプト記3:7)。◇神は、御自分の造られた民を身捨てることができない、愛してやまないお方であることを、クリスマスの出来事はわたしたちに告げ知らせています。

         り

 

2013.12.29    サムエル記上1:9−20 (牧師、松田和夫)

◇信仰の中心にあるもの、それはなんと言っても「祈り」です。サムエル記上の「ハンナの祈り」は、「心をそそぎ出す祈り」と言われます。エルカナの妻であったハンナには子どもが授からなかったのですが、もう一人の妻・ペニナには何人も子どもが授かっていました。子どもが授かるのは、神の祝福のしるしであるとの考え方が強かったユダヤの社会では、ハンナの悩み苦しみは大きかったのです。◇彼女は、ペニナの敵意をうけますが、夫のエルカナは、ハンナを愛していました。しかし、そのことで彼女の苦しみは癒されません。長い嘆きと悩みに耐えて、ハンナは、主の家に詣でた折に一人で主に向かい祈ります。それは、生まれた子を必ず主にささげるという誓いを立てた祈りでした。◇彼女の祈りには、夫やペニナに対する対抗的なものは微塵もなかったのです。彼女は、ただただ主に心を向け、主の御前に出て心の中のすべてを明け渡して祈ったのでした。ハンナの祈りは、子どもを授かることをというよりも、主からの祝福を確信したかった故のものでした。◇ハンナの祈りは、ついに主に聞かれます。そうして授かった子が、後にイスラエルに王国の成立をもたらす地ならしをなした預言者サムエル(「その名は神」の意)でした。彼は、このようにハンナの「祈りの子」でした。ハンナの祈り、そこには祈りの模範がみられます。それこそは、主に「心をそそぎ出す祈り」でした。

JJJ 主 に あ り て 新 た な り JJJ

 

2014.1.5       コロサイ3:5−11   (牧師、松田和夫)

◇新しい年になりました。「日々是新たなり」と言います。昨日という日はどこにもありません。過去はまるで夢のごとく、無であるとまで、漱石は『点頭録』(大正5年)で言います。しかし、今の自分は、その過去から一刻一刻もち来たらされてここに厳然として在るのも動かせない事実であるとも言うのです。◇キリスト者は、この今の自分を「主に在りて日々新た」にされるものと理解します。そこでの「新たなり」は、「古い自分」が主にあって新しくされた自分であると自覚されるところから来ます。きょうの御言葉の箇所では次のようにです。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて」(10節)と。これは、わたしたちが文字通りバプテスマを受けて新生することを意味しています。イエス・キリストの十字架の死と復活、それにわたしたちが与ることです。それによって、わたしたちは「キリストを着る」のでもあります。◇着物にたとえたような言い方ですが、それはキリストがそれだけ身近におられ、信じたら誰にでも与えられることを言っています。キリストを心に受け入れる。キリストがわたしたちの内におられることがすべてであるのです。それによって、霊の目が開かれ、わたしたちは罪赦され、人をも赦すことができます。不満も感謝に変えられます。神の愛に生かされていく者とされます。新しい年に「キリストを着て」日々新たに歩んでいきましょう。

JJJ 御 言 葉 を 聞 い て 行 う  JJJ

 

2014.1.12 ヤコブ1:19-25   (牧師、松田和夫)

◇「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ書10:17)ここには「聞くこと」(むしろ「聴くこと」)の重要さが言われています。「御言葉を聞いて受け入れる人たち」(マルコ4:20)には神の祝福があります。しかし、ヤコブ書では信仰がただ聞くだけで終わるのでは真の信仰と言えないのだと言われています。◇ここには信仰義認と行為義認の問題というのがあります。パウロの「ロマ書」に「信仰のみ」が救いを保証すると認めた(信仰義認)のはマルチン・ルタ-ですが、そのパウロも信仰からくる行いを無視したのではありません。むしろ、真の信仰はおのずとその実りとして良き業となって表れると、パウロは考えています。◇ここでヤコブは、すでに信仰に立っているキリスト者のことを問題としています。信仰が単に聞いてそれで終わるだけではなんにもならない、それだったら机上の学びにしかならないでしょう。ヤコブ書では、真に御言葉を受け入れるということは決してそれだけに終わるものではないことを言わんとします。◇なぜなら、神の御言葉には、本来、わたしたちの心を変える力があるからです。御言葉を真に聞く者は、おのずと神の御心・力に促され、御心を行う者とされていきます。すでに信仰を得ていると思っていても、行いが伴わないとその信仰は死んだものとなっていると言うのです。「御言葉を聞いて行う人」となりましょう。

JJJ イ エ ス の 服 に 触 れ る 女   JJJ

 

2014.1.19    ルカ8:40-48    (牧師、松田和夫)

◇ここに出ている女性は、出血の病気を患い、そのために人々から「汚れている」とされ、非常な苦しみを与えられた。レビ記15章には「汚れと清め」についての詳細な掟が記されています。古来日本でも、血は汚れるとして忌み嫌われました。死の汚れとか、女性の生理的な血の汚れとか。変な話、相撲の土俵の上には女性はあがってはいけないものとされています。汚れるからというのが理由です。◇この女性の抱えていた苦しみは、肉体の病だけでなく、社会的にも疎外や差別を受け、非人間的な扱いによるものもあつたのです。彼女はそこから救いだされるために、全財産も使い尽くした、おそらく人間関係もすべて破壊され尽くしていたのでしょう。主イエスだけに最後の望みをかけた行動に出ているのです。◇イエスだけしか自分を救う方はいないと、彼女はある種の啓示を受けたのでありましょう。群衆の混雑の中で、せめてイエスの服に触れられれば、それだけで自分は癒されるとの確信があったのです。それは彼女の信仰でありました。そのような信仰の管を通して、主の癒しの力は主ご自身の内より出て、彼女の病は癒されます。◇触れるだけで、一瞬にして癒される。そのようなことがあるでしょうか。あるのだということを、ここは証ししているのです。彼女の信仰の行為は、それほどに主を動かす信仰でありました。癒しの力は主にあります。それをいただくほどの信仰の管を持ちたいものです。

JJJ  タリタ、クム(娘よ、起きなさい) JJJ

 

2014.1.26     ルカ8:4956      (牧師、松田和夫)

◇福音書の中にときどき主イエスの言葉でカタカナ表記のものがあります。よく知られているのは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」でしょう。前半はヘブライ語、後半はアラム語です。「タリタ、クム」もアラム語で、主イエスは日常会話にアラム語を使っておられたと言われます。◇このようなイエスの言葉が記されて残っているのは、それだけ強烈な印象を人々に与えたからであろうと思われます。主イエスは力強い声で叫ばれたのです。「起きなさい」とは、「復活する(神によって起こされる)」を意味するギリシア語と同じ言葉の命令形です。娘は、主によって死から命へと起こされたのです。この命とは、もとの体そのままではありません。復活のからだ、「霊のからだ」(パウロ)です。◇これはさまざまのことをわたしたちに黙想させます。当時のユダヤ人のあいだには、終末・終りの日に主の再臨により死者は復活するとの考え方はありました。しかし、ヨハネ福音書は、復活は今この時のこととしてイエスによって宣言されています。主イエスを救い主として信じ受け入れる者には、その場で神の永遠のいのちに「移っている」(ヨハネ5:24)のだ、と。◇だから、復活は今のこととしてあるということです。主を受け入れるところに、朽ちないいのちとして生きる者とされる。死んだようであった者が、神のいのちに立ち返らされます。主は、立ち上がれないでいる者を、立ち上がらせてくださる方です。

JJJ  (いた) め る (あし) を 折 る こ と な く JJJ

 

2014.2.2    イザヤ書42:1-4   (牧師、松田和夫)

◇「イザヤ書」40章から55章は第二イザヤと呼ばれます。BC6世紀半ば、ユダヤの民はバビロニア王国に占領され、多くの民がバビロンの地に捕囚の身となります。彼らは50年間にわたり捕囚の地にあって苦難を強いられながらも故国への帰還を待ち望みます。◇預言者イザヤは、ユダヤの民を救いだす「主の僕」を民に告げます。これは、当時、新しく起こって来たペルシア帝国の王キュロスによってバビロンから彼らが解放されることを預言したものでした。それを、イザヤは主から召命を受けた一人の僕の姿として示します。◇この箇所は「僕の歌」(第二イザヤに4か所ある)として知られています。この箇所に描かれている主の僕の姿は、御子イエスの姿を預言したものとなっています。彼は「傷ついた葦を折ること」のない、また「暗くなっていく灯心を消すこと」もない方です。◇主イエスは、盲人や不治の病を患う者、悪霊に取りつかれた者、罪深い者、・・そのような体や心の傷ついた葦である人々を癒し、それこそ命の灯心が暗くなって行くばかりの者たちに神の命に立ち返り、主を信じる者たちに永遠の命を与える道を開かれたのでした。

◇「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(マタイ:28)と、主はいつも招いておられます。わたしたちの魂が真に癒され、命が生き返らされるのは、主イエス・キリストの十字架と復活に示された神の愛、神の力によるのです。

JJJ 「 何 へ の 感 謝 ? 」 JJJ

 

2014.2.9          三上 梓兄

本日の宣教でとりあげるキーワードは「感謝」です。福音書を読んでいると、「感謝と祈り」が結び付けられる、二人の祈りが記されています。◇マルコによる福音書8章6節「6イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。8人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。」一人は、主イエス・キリストです。大勢の群衆を前にしたイエスは、感謝の祈りを唱えてパンを裂き、弟子たちに渡しました。そして、弟子たちはパンを群衆に配りました。人々とパンを分かち合い、共に生きようとするときに、イエスは神に感謝しています。◇ルカによる福音書18章11-12節「11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のようなものでもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」もう一人は、イエスが語るたとえ話に出てくるファリサイ派の人です。彼は、心の内で感謝の祈りをささげます。「神さま、感謝します。私は他の罪びとたちとは違い、全てを行っています」。彼は、自分と誰かが違うこと、共にいる必要がないことに対して神に感謝しています。二人がささげた「感謝の祈り」は、対照的といってよいほどに違います。人は、何に感謝して生きるのでしょうか。                      

  JJJ   左 の (ほお) を も 向 け な さ い JJJ

 

2014.2.16 マタイ5:38-42  (松田和夫牧師)

「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」パウロは、ロ-マ書12:19で「申命記」32:35のこの一節を引用して言います、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」と。これは主イエスの御言葉「悪人に手向かってはならない」つまり、復讐してはならないという訓えに通じます。◇主イエスは、悪に対してただ報復してはならないと言うのではありませんでした。右の頬を叩かれたら「左の頬をも向けなさい」と言われます。降りかかる悪事に対して、ただ忍従しなさいと言われているのでもなければ、それに対して超然としていなさいと言われているのでもありません。◇「左の頬を向ける」とき、そこにある事態は変化させられます。それは、底意地悪くどこか自虐的なまでの対抗の行為なのでもないのです。それは報復の行為を放棄するばかりではなく、報復の論理を乗り越えていく道なのでもあります。悪の行為それ自体の意味をスポイル(無化する)してしまう応対の在り方です。◇それはまた、主イエスの持っておられた「柔和」を示しています。それこそは、神の愛による応対ですが、しかし、それは生易しいことでは、もちろんありません。いや、とてもわたしたちにふつうにできることではないでしょう。主の十字架によって罪赦されるところで初めて、かろうじてそれに倣うことのできる者とされていきます。  

JJJ   ここ ま で、 そ し て、 こ こ か ら JJJ

 

2014.2.23       詩編121篇 マタイ112830  (松田和夫牧師)

「早春特別集会」(寒い中、ここらでちょっとホッとしゅうかい)にようこそおいでくださいました。巷(ちまた)では冬の祭典オリンピックもそろそろ終わりを迎えています。見ていると祭典がどこか採点のように聴こえてくるようですが・・。まっいいかっ。◇今回のテ-マから浮かんでくるコンセプトは何か。みなさんそれぞれにイメ-ジしてほしいところです。拓郎は歌っています。「♪わたしは今日まで生きてみました」と。そう、今日まで、そして、明日から。一日一日を生きて行く。その意味で、今日というこの日は、いつもスタ-トラインです。あなたは、昨日の重荷をまだ引きずっているでしょうか。そんな時には、「遠くを見るんだよ」と、馬場俊英は歌ってくれます。◇聖書は「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」と歌います。それは何かを求めている姿勢を思わせます。「わたしの助けは来る」のか、と。詩人は神に示されて言います。「天地を造られた主のもとから」わたしの助けはくる、と。そこには力強い響きがあります。主はいつもわたしたちを見守っておられる方だからです。◇神の子キリストは、重荷を負うわたしたちに「だれでもわたしのもとに来なさい」と語りかけています。キリストの軛(くびき)を負う者となる時、わたしたちの重荷は軽くされ、揺るがない平安が与えられることを、御言葉は教えています。 

JJJ     十 字 架 の 愚 か さ   JJJ

 

2014.3.2 コリントの信徒への手紙Ⅰ1章18-25節 (松田和夫牧師)

◇十字架はキリスト教のシンボルのようなものですが、実際にはロ-マ帝国が編み出した残酷極まりない死刑の方法でした。十字架上のキリストを救い主・メシアと信じることなど、当時のユダヤ人にはとうてい受け入れられないこと。つまずきとなるものでした。また、異邦人であるギリシア人にとっては愚かなことでしかなかったのです。◇しかしパウロは「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めた」(第一コリント2:2)とまで言います。それほどパウロにとって十字架のキリストは彼の信仰の真髄であったのでした。パウロは、十字架のキリストの弱さ、愚かさ、悲惨さといった姿にこそ神の力・神の知恵はあるのだと言います。それは一見ふしぎなことです。わたしたちの常識的な考えを砕きます。けれども、それこそが人間を救う神の知恵であると言うのです。◇ここにはパウロの逆説的な十字架の捉え方があります。キリストの弱さが救い主と信じる者にとっては強さであり、キリストの愚かさが神の真に賢い知恵としての救いのみ業であるのです。そのことを「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と言います。神の愚かさとは、人間が砕かれ、その愚かさの極みにおいて与えられるものでしょう。そのとき人は真に救われる者とされます。そして、弱さの極みにある者こそ主にあって強いのです。

JJJ   心安かれ。起て。なんぢを呼びたまふ。  JJJ

 

2014.3.16   マルコ104652節      (松田和夫牧師)

◇「心安かれ」とは、「元気を出せ」とも訳されます。「起て」とは、神がイエスを死から「起こされた」=「復活させた」と同じ原語です。主イエスに出合うところに、人が立ち直る・人を立ち返らせる業が起こります。それは、主の懐ろに心安らうことでもあるでしょう。盲人バルティマイは、主から呼びかけられて、主の御もとに「躍りあがって」駆け付けたその時にいっぺんに、それまでの自分を変えられたのでした。◇そんなことは、俄(にわ)かに信じがたいことではあります。しかし、この世にはこれほど一瞬でなくとも、キリストと出合うことで肉体的なハンディを背負った生涯を変えられていった人は数えきれないほどいます。ヘレン・ケラ-女史、レ-ナ・マリアさん、水野源三さん、星野富弘さんなど。◇ヨハネの9:3で、「生まれつき目の見えない人」に対して、主は「神の業がこの人に現れるためである」と言われました。バルティマイにしても同じでした。イエスの呼びかけに応え、御もとに駆けつけた時、一瞬にして主の恵みを受け「見えるようになり」=自分の命の本当の意義・神の平安を与えられ、主に従う者とされました。◇バルティマイの思いはどこにも説明されていません。ただ、彼の言動に、信仰とはどのようなものであるかを示されます。「見えるようになる」とは、心の目が霊的に見開かれるということです。

JJJ  そ の 壺 を (こぼ) ち て   JJJ

 

2014.3.23       マルコ1439節       (松田和夫牧師)

◇この出来事は、四つの福音書すべてに記されています(ルカでは文脈が少し異なる)。それだけ意義深いものと考えられてのことでしょう。主イエスが十字架の受難の道をたどる、その途上での出来事であることを覚えます。◇ここに出ている「一人の女」は、ヨハネ福音書では「マリア」という名前になっています。「ナルドの香油」は「純粋で非常に高価」(3)な物であったようです。主イエスが共におられた宴席において、この予測もしない出来事が起こっています。「事が起こるとき、わたしは常にそこにいる」(イザヤ46:16)と御言葉にあります。◇女は壺を壊して、香油をイエスの頭に注ぎます。だれもが驚いたことでしょう。それをとがめた人々の反応に対して、ここで主イエスが言われた言葉は、深い憐れみと慰めに満ちています。「この人はできる限りのことをした」と。さらにまた、事の意味するところを神の御心にかなって示してくださっています。「前もって・・埋葬の準備をしてくれた」と。◇女の行為は、主の十字架の受難の道の備えとしての意義深い出来事として、後々にまで語り伝えられることとなります。

主のために注ぎ出す惜しみない捧げものは、主の御心によって用いられ、香油のように香り立ち、ただよい、広まって行きます。わたしたちも、「キリストの香り」を放つ証し人として、用いられていくことを願います。

JJJ 主 が お 入 り 用 な の で す  JJJ

 

2014.3.30     マタイ21111節  (松田和夫牧師)

◇イエス様がエルサレムに入城(都は城壁で囲まれていた)される直前に、不思議なことが起こっています。「向こうの村」に弟子を遣わして「子ろば」を連れてきなさいと命じられました。「主がお入り用なのです」と。連れて来られた子ろばはイエス様を背中に乗せて、都への道をたどり群衆の歓呼の声に迎えられます。「ダビデの子にホサナ」と。◇これは預言書・ゼカリヤ書で預言されていたことが実現することであったと、マタイ福音書は言います。500年以上も前の神のみ言葉が歴史のうちに成就していきます。しかし、群衆は、主イエスがこの後十字架にかけられることをどれほど理解していたでしょうか。「ガリラヤのナザレから出た預言者」と、イエスのことを彼らは言っています。◇救い主イエスが十字架の道を開かれる時に、主を運んだ子ろばのことを思わされます。ちいさなろば、しかし、子ろばはここで大きな働きを担ったのです。主に召し出され主をお乗せすること、それは主の御心に従い、主のみ言葉を運ぶ者とされることでもあります。どんなにちいさな者であっても、主によって用いられることで、人々に喜ばれ、主の栄光にあずかる者とされていきます。◇「ちいろば先生」と呼ばれた榎本保郎牧師のことを思わされます。ちいさな器と自称する榎本牧師が、主に召し出され、主を背中にお乗せして生きた伝道の生涯をです。

JJJ主 に あ り て 強 く あ れ  JJJ

2014.4.6  エフェソ610 - 20 節  (松田和夫牧師)

 

2014年度がスタ-トしました。年間聖句は「主にありて強くあれ」です。

聖書には「主に依り頼みて」とあります。それは私たちが強くなる秘訣を教えています。私たちの本当の強さは自分の中から出てくるものではないということです。私たちの強さは、十字架の御業に示されたキリストの「信実(父なる神への真の誠実・忠実)」、また、そこから甦られた復活の力、それに私たちが自分をすべて委ねるところに与えられる(受け身の)力のことです。ですから、強さの源はすべてキリストにある、主にあるということです。◇この手紙の箇所でパウロは信仰者が「悪魔の策略」に対抗して生きる時に必要とする「神の武具」を身につけよと勧めます。悪魔は巧妙に私たちを神から引き離そうとします。この世的な誘惑へと信仰者をそそそのかします。そのような惑しから守るものが、神の霊的な防具です。「真理の帯」「正義の胸当て」「平和の福音の履物」「信仰の盾」「救いの兜」です。これらはロ-マの兵士の姿を思わせます。◇攻めるための武具はただ一つ「霊の剣=神の御言葉」です。これでもって悪魔の息の根を止めるのです。御言葉こそは神の霊が宿るもっとも力ある武器であるからです。◇「主により頼みて」とは、このように主の真実と御心に守られ、主の御言葉をいただき、祈りのうちに霊的に導かれることです。そこにこそ力があります。

JJJ十 字 架 を 背 負 わ さ れ た 男JJJ

2014.4.13  マルコによる福音書15:21-32  (松田和夫牧師)

 

◇今週は受難週に入ります。この金曜日に主イエスは十字架にかけられ、三日の後に復活されました。その十字架に向かう道の途中で奇妙な出来事が起こります。たまたまアフリカ北部にあるキレネから出てきていたシモンという男が、イエスが担いだ横木を背負わされます。◇シモンにしてみれば、とんでもないことであったでしょう。まったく予想だにしない、この身の上に起こった出来事を、彼はどのように受け留めたのでしょうか。シモンの思いは想像にりありません。彼の息子の名前がわざわざ二人とも記されてあります。これは特別な感じがします。◇息子のルフォスは、パウロのロマ書の中にその母親と共に出てくる信徒のルフォスと同一人物の可能性があります。そうだとすれば、シモンの家族は彼がイエスの十字架を担がされたばかりに救いに入れられたと考えられます。◇主の受難の道行きにこのような出来事が起こされていったことを思うと、神の計り知れない御旨を思わされます。十字架は、主から背負わされるときに、恵みとされていくのです。主はわたしたちの重荷を軽くしてくださる。そればかりでなく、十字架はわたしたちが背負う罪の象徴でもあります。主の十字架の受難によってわたしたちの罪は赦され、神の御心・愛がそこに示されたのです。十字架を仰ぎ見るとき、わたしたちの罪を思わされます。

 

JJJ         (あした) に は よ ろ こ び 歌 わ ん       JJJ

2014.4.27   詩編30篇   (松田和夫牧師)

 

◇「♪忘れないで悲しみの夜は希望の(あした)に変わることを」(『忘れないで』)主に感謝し主を賛美する、信仰生活とは結局それに尽きるのではないでしょうか。この詩人は死に瀕した事態の淵から「引き上げられ」救われました。「わたしに命を得させてくださいました。」(4)と。そのような救われた恵みの体験が賛美へと向かわせます。◇ここで「命」とは、時間の中で滅びる命なのではなく、神の命に結びつく朽ちることのない霊的な命のことです。それは、信仰の恵みとして与えられるものです。神はイエス・キリストの十字架の死と復活の業を通して、私たちに「命」を得させる道を開いてくださいました。キリストを主と信じ、それに繋がるところに朽ちない命とされます。◇平穏無事な日常を過ごすことは感謝なことです、しかし、それも神の恵みにより支えられてあることを忘れてはならないでしょう。人生には神が「御顔を隠された」というしかない出来事がいつ起こるか知れません。突然の事故や病い、人間関係の破たんや。◇そのような時には、暗闇の中に突き落とされた気がして、私たちはへりくだり自分の真の助けである神を叫び祈り、求めるのです。その時、憐れみの神は祈りに応えそこから救いだし「命」へと導いてくださいます。「恐れるな、わたしはあなたを(あがな)う。あなたはわたしのもの」(イザヤ43:1)であるからです。

    JJJ「 か つ て 」 と 「 い ま 」JJJ 

2014.5.4    エフェソ2章1-10節  (松田和夫牧師)

 

◇「罪の支払う報酬は死です。」(ロ-マ6:23)罪とは、神の霊的ないのちとかけ離れて生きる者のあり方を言っています。そのような生き方をする者は、生きていても死んでいると同じであり、その命はただ滅びに至ると聖書は言います。◇エフェソ2:1-10は、そのような罪の支配の下に生きていた者たちを「罪のために死んでいた」のだと言っています。わたしたちは、生まれつきの自然なままの命に生きるとき、「肉」の命に生きています。キリストに結ばれて神の霊的ないのちに生きるようにならなければ、どこまでも罪の中に生き、罪の奴隷となっています。◇パウロは、エフェソの信徒たちに対して、あなたたちは「かつて」の罪に支配された生き方から、「いま」はキリスト・イエスによって救われ、キリストと共に生かされ、復活の命にあずかる者とされたのだと言います。それは「憐れみ豊かな」神の恵み・神の愛によります、と。自分の力によるのではないと。それがキリストによって新たに「造られたもの」となった、つまり「新生」です。◇バプテスマとは、このように生き方が180度ひっくり返り、神につながる命を生きる者とされることです。神が賜わるいのちは、「キリスト・イエスによる永遠の命」(ロ-マ6:23)なのです。ですから、「まことの命」に生きるとは、イエス・キリストを救い主と信じて生きることです。

JJあ な た の 神 は わ た し の 神 JJ

2014.5.11  ルツ記1章  (松田和夫牧師)

 

◇母の日の起こりは、南北戦争時代のアメリカのメソジスト教会に属するある母親の提唱によって始まったものです。女性の名前はアンナ・マリア・リ-ヴス・ジャ-ビス。彼女は母親の健康衛生向上のためのクラブを組織し、南北戦争後の1865年に「マザ-ズ・フレンドシップ・デ-」のイベントを成功させ、これに力を得た彼女はすべての母親を讃える特別な日の制定を望みますが、かなわず死去。その後を継いだ娘アンナ(同名)の地道な運動が実り、1908510日に「すべての母親に感謝する」礼拝が捧げられました。◇彼女は母のために500本の白いカ-ネ-ションを教会に贈ったと言います。この花は母親の愛の美しさ、純粋さ、忍耐強さを象徴しています。◇聖書の時代、女性は社会的には差別的な地位に置かれていたのは歴史的な事実です。けれども、だからといって重要な役割を果たしていない訳ではありません。マタイ15節にある主イエスの系図には4人の女性の名前が出ています。その中の一人がルツです。◇彼女はユダヤ人からすれば異邦人の出でありながら、ダビデの曾祖母にあたる人です。ルツと義母ナオミとの嫁・姑関係には美しいものがあります。ルツは「落ち穂拾い」をして苦境にあったナオミを助け、ボアズとの間に男の子を授かります。隠れた神のみ手が働き、彼女たちを不幸な運命から救います。

JJJ  蜜 よ り も 甘 い 神 の 言 葉   JJJ

2014.5.18  詩編198-15節  (松田和夫牧師)

 

◇「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)これは、旧約聖書「申命記」8:3にある言葉です。

人間が言葉を操れるのは人間の大きな特性です。言葉によって人間は文化を生み出し、精神的な豊かさを生きることができます。しかし言葉は、実に不安定なものでもあります。時には人を傷つける武器ともなります。誤解を招いたり、人とのあいだを破壊することだってあります。◇神の言葉はどうか。完全・真実・まっすぐ・清らか、と言われています。そのような神の言葉は、人の魂を生き返らせ、無知な人にも智恵を与え、心に喜びを、目に光を与える、とあります。要するに、人を変える力があるのです。神の言葉には、神の御心と神の力が宿っているからです。◇人の言葉も時に人を慰めたり、励ましたりします。たった一言が人を助けることだってあります。けれども、人の人格や生き方そのものにまで力を及ぼし、魂を救いへと導いたりするのは、神の言葉によらなければできないことです。◇「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくはわたしのもとに戻らない。」(イザヤ55:11とあります。神の言葉は「朽ちることのない種」であり、わたしたちの心・体に入ると、必ずやわたしたちを育て、実りをもたらしてくださる。御言葉を日々に求め、身に浴びて、過ごしましょう。

    JJJア ブ ラ ハ ム・ 信 仰 の 旅 立 ち  JJJ 

                 2014.7.7  創世記12章1-9節 (松田和夫牧師)

 

◇アブラハムは信仰の父と呼ばれます。パウロはアブラハムが、その信仰の故に神に義と認められたと言います(ロマ書4:3)。アブラハムの信仰、しかしそれは、決して完璧なものではありませんでした。わたしたちの信仰にも通じる、さまざまな弱さを抱えたものでもあったのです。それでも、主はアブラムとその子孫を通して神の祝福を与えようとされます。◇それは神の自由な選びによる祝福ですし、わたしたちの信仰はそれを受け継いだ者たちです。アブラハムの信仰の旅立ちには、信仰というものの在り方が示されています。それは神の語りかけによって始まり、それにわたしたちが聞き従って行くところに成就されていくものです。◇信仰に導かれるとき、わたしたちはさまざまなものと「離れる」ことを求められます。主は言われます「生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」それは、神の導くところへと御言葉を通して導かれていくことです。自分の思いに頑なにならず、この世的なものから離れて、神の国と神の義を求めていく旅であります。◇そこに苦しみや迷いがないのではありません。さまざまな試練が待ち構えています。アブラハムもそうでした。しかしその都度、主はアブラハムに現れ、御言葉をもって励まし、祝福します。わたしたちも主イエスに導かれ、主の祝福にあずかりたいと願います。

    JJ信 仰 の 眼 が 曇 ら さ れ る 時 JJ 

                 2014.7.13  創世記1210-20節 (松田和夫牧師)

 

◇アブラハムは主から「祝福の源」(2)とすると言われ、「主の名を呼んだ」(8)、礼拝を捧げました。ところが、ひどい飢饉にみまわれ、彼はエジプトに下ることにします。そのとき、エジプトの王ファラオに美しい妻サライを奪われ、自分が殺されかねないと思い「自分の妹」と言うようにサライに言います。サライの思いはどこにも記されていません。アブラハムはどんな気持ちでそのような挙に出たのでしょうか。◇その時、彼は神に祈っていません。自分の力だけを頼んだ、信仰の眼が曇らされたとしか言えない行動です。私たちはこれを笑うことができるでしょうか。信仰を与えられても、すべてが順調に進むものではありません。さまざまな困難な事態は襲ってきます。そのような時に私たちも眼が曇らされ、先が見えないときには、アブラハムのように極端ではなくとも、不信仰な行動に出ることがあります。◇主が働いてくださることで、アブラハムは危ういところを救われます。サライを取り戻し、自分もファラオから逃れさせられ、窮地を脱することになります。ファラオの「なんということをしたのか」(18)の一言でアブラハムは眼が覚めたことでしょう。ここでの彼の無言はその内心を雄弁に語っていないでしょうか。主はいつも思いがけない方法で私たちに関わってくださる。そのことを覚え、主に依り頼みましょう。

    JJJ  虹 を 見 上 げ て   JJJ 

                2014.7.20 創世記912-17 節 (松田和夫牧師)

 

◇東日本大震災に遭った東北の諸教会の証言集『すべてを耐えて荒野に咲いた花』(Duranno Japan発行)を最近読む機会がありました。震災から6月経った時点で出されたこの小さな本に、2か所「ノアの箱舟」に触れた箇所がありました。◇教会が津波・原発事故にあって、その地から避難するしかなかったある方は、その避難の日々を「さながらノアの箱舟のような共同生活」であったと記しています。また、ある方は、その時の教会の置かれた状況を、やはり「ノアの箱舟」に例えています。「やがて鳩がオリ-ブの若枝をくわえてくるまで・・」と。◇聖書はその冒頭において混沌と闇が覆った世界に「光あれ」という神の言葉によって、わたしたちを救いへと導く宣言がまずなされています。これこそはイエス・キリストによって私たちに告げ知らされることになる福音であります。現実がどんなに過酷で暗闇が迫ってくるときにも、主イエスに従い十字架と復活にあずかるところには、霊的な真の救いが約束されている。その意味で「箱舟」とはイエス・キリストであることを知らされます。◇箱舟から出てきたノア。彼も決して完璧な人間ではなかったのでした。しかし、神様はそのような不完全な人間に対して祝福と救いの約束を告げられます。雲の中に置かれた虹、それはその神様の御心が現れたしるしであります。希望の虹です。

   JJ  星 を 仰 ぎ 見 る ア ブ ラ ハ ム  JJ 

               2014.7.27   創世記151-6 節 (松田和夫牧師)

◇「恐れるな、アブラムよ」(1節)「恐れるな」という神の呼びかけが聖書の中で最初に出てくる箇所です。わたしたちは、いつもこの神の御言葉を語りかけられています。現実に生きる時に、わたしたちは故知らぬ恐れを抱いているからです。それは誰しも心の奥底を覗いてみればあることです。

主イエスも言われました。「わたしだ。恐れることはない」(ヨハネ6:20)と。◇アブラハムは、ここで主に対して問いかけています。あなたの約束されたことはいつ実現してくださるのですか、と。わたしたちも神さまに祈れども現実が自分の願うようにならないとき、神さまの御心を疑うことがあります。けれども、神さまはわたしたちの願望実現のためにおられるのではありません。信仰を生きるとき、その主体は神さまにあるのです。そこをはき違えると、不満やつぶやきや疑念にとらわれることになります。

 

◇主はアブラハムを天幕から外に連れ出し空の星を仰がせます。「星を数えることができるなら数えてみるがよい」(5節)美しい場面です。神さまと無言の対話をするアブラハム。彼はどのような思いで星を仰ぎ見たのでしょうか。そこには宇宙までも創造された神さまの御前に、真にへりくだらされたアブラハムがいます。アブラハムは改めて「主を信じた」のです。すべてを主に委ねたということです。主はそれを「義」とされました。

      JJ わ た し を 顧 み ら れ る 神  JJ 

       2014.8.3       創世記161-16 節 (松田和夫牧師)

 

◇主からの約束を与えられたアブラムとサライ、10年経ってもなんの兆しも見られないのを待ちきれないで、サライは自らの計画をもってアブラムに迫ります。自分の女奴隷ハガルによって子供を授かろうとします。アブラムもそれに従い、計画はうまく運んだかのように見えます。◇ところが、想定外のことが起こります。子を身ごもったハガルはサライを見下します。サライはその責任をアブラハムになすりつけ、アブラハムを責めます。アブラムはハガルのことをサライにまかせ、自分は関知せずといった態度です。◇ここには三人それぞれに神を畏れぬ言動が見られます。神は彼らをどのように見守っておられたのでしょうか。ハガルは女主人サライのもとを逃げ出すしかなかったのです。路頭に迷ったハガル、けれども主はハガルを見捨てられたのではなかった。主はハガルを顧みられたのでした。祝福し、ハガルの子孫を増やすことを約束されます。そしてハガルを女主人サライのもとに帰らせます。◇ハガルの生きる道を主は示されたのです。過酷な環境に戻されたハガル。けれども、そこには主の祝福と恵みが備えられています。わたしたちも自分が置かれた場所から逃げ出したいと思うことがあるでしょう。主はその場にあって、いつもわたしたちを見守っておられます。主にあってキリストの恵みを日々に味わっていきましょう。

   JJ主 の 山 に 備 え あ り JJ 

            2014.8.10      創世記221-19 節 (松田和夫牧師)

◇アブラハムの信仰、その頂点にある出来事がイサク奉献の試練です。「あなたの愛する独り子イサクを」「焼き尽くす献げものとしてささげなさい」と。信じがたい試練、信仰の試みです。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15章)。信仰は、神の御言葉に人が従い応答していくところに成り立ちます。そこには行為が伴います。この時のアブラハムがどんな思いであったか、それを聖書は語りません。ただ黙々と主の命じたところに従おうとするアブラハムがいます。◇わたしたちの人生には不条理としか思えないことが、時にわが身の上に起こり得ます。自然災害から突然の病や事故、そして愛する者を失うこと等。どうしても答えの見いだせない苦難に落とされる時、わたしたちは神を責め呪います。信仰があればこそ苦しみも大きいものとなります。◇アブラハムにも苦悩がなかったのではないでしょう。彼のすべての苦悩の末の結論は「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」でした。この「きっと」の一言には千斤の重みがあります。その重みに耐えたアブラハムがいました。

◇主イエスは言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)その主を頼み主に委ねるところに試練を逃れる「主の備え」があることを覚えます。ところには必ず主による備えの道が与えられるという

     JJ 神 と 和 ら ぐ こ と  JJ 

                  ヨブ記2221-27 節 (松田和夫牧師)

◇「和らぐ」とは「和解」とも訳されます。神さまと和解する。人は喧嘩したとき、相手にあやまって仲直りする、それを和解すると言います。神さまとのあいだで私たちは元来、敵対している関係にあると聖書は言います。どういうことでしょうか。◇事はアダムとイヴにまでさかのぼります。

人は禁断の木の実を食べたことから、神に対して敵対する関係に置かれました。神の御もとを離れて生きるものとなった、それが罪と言われるものでした。人は自分を神としてしまいます。神を無きものとして、自分だけを頼みとして生きて行く。そこに人の不安定・不安感の根源があります。◇「神と和らいで、平安を得るがよい」(口語訳)。平安は神と和らぐ関係に置かれた時に初めて得られる。平安とは、神が与えるものです。人の力、人の努力や精進などによって得られるものではない。神とのあいだの敵対関係を取り除いてくださったのが、イエス・キリストの十字架です。それは、神さまのほうからなされた恵みの和解の業であります。私たちに求められるのは、十字架に示された神の愛の業をただ受け入れることだけです。◇他者とのあいだでの対立や敵対関係も、元をただせば神さまと自分とのあいだでの敵対関係に根因があります。十字架のキリストに自らを委ねるところに初めて何ものにも揺るがぬ神の平安(シャロ-ム)が与えられます。

 

 

     JJ 我 も (なんじ) を 罪 せ じ  JJ 

               2014.8.31    ヨハネ81-11 節 (松田和夫牧師)

 

◇新共同訳では「わたしもあなたを罪に定めない」です。ここには神の赦しがあります。主イエスは言われました。「あなたたちの(うち)で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と。その場にいた者たちは「一人また一人と」立ち去ったと聖書は語ります。イエスの言葉がいかに彼らの胸に突き刺さったかが、よく分かります。もちろん罠にはめようとたくらんだ律法学者やパリサイ派の人々も同様であったでしょう。◇共同体の掟としての律法は守られなければならない、そうでなければ秩序と安寧は保てません。現在でも違法行為は法によって取り締まられます。しかし、人としての良心の在り方まで法が律することはできない。それは神との間でしか処理できないものです。私たちがだれ一人罪無き者ではいないことを、主イエスは知らしめられた。そして、そのような人間であればこそ、神の憐れみにより罪を赦され、神の御心に従う者として「行きなさい」と、主は言われたのです。◇この女は、主イエスを通して神の愛が示されていることを知らされます。主は十字架にかかり、神の御子として私たちの罪をすべて贖われた方であったればこそ、私たちの罪を神の権威をもって赦すことができた方です。この赦しは同時にまた裁きでもあり、新たな生の可能性へと女を促すものでもあったことを覚えたいと願います。

       JJ(おのれ)ごとく(なんじ)(となり)を愛すべしJJ             2014.9.7  ルカ1025-37 節 (松田和夫牧師)

◇キリスト教と言えば「隣人愛」です。この善きサマリア人の譬えは、その好例として有名な話です。ルカ福音書にしか記されていません。すべてを上げて神を愛することと「隣人を自分のように愛する」(レビ記19:18)ことは、主イエスのおられた当時、神の戒めを集約したものとして一般に知られていました。◇イエスを試そうとした律法の専門家は、何をすれば「永遠の命を受け継ぐことができるか」と問います。それに対してイエスは、律法にはなんと書いてあるかと問い返します。さすがに律法学者ですから正解を答えます。それが、上の戒めであるのです。◇彼は知識としてはよく知っていました。イエスは「それを実行しなさい」と言われます。果たして、私たちも隣人を自分のように愛することができているでしょうか。このサマリア人は、暴漢に襲われた、民族的には宿敵であるこのユダヤ人を献身的に介抱します。赤の他人に対して自分のことのように出来る限りのことを尽くすのです。◇「自分のように愛する」とは、自分のエゴに捉われないで、自分を無にして行動することでしょう。イエスが言われる愛とはアガペの愛です、それは神から出るものであるのです。「愛は地球を救う」といったヒュ-マニズムの愛ではありません。神の愛を受け入れるところに初めて可能となる愛のことです。神への愛から人への愛へです。

 

 

   JJ 神 の 賜 物 を 生 き る JJ                

2014.9.14 コヘレトの言葉5:12-19(松田和夫牧師)

◇「空の空なるかな、すべては空なり」コヘレトの言葉の冒頭の一節です。

 

「日の下」における人間たちの営みが、必ずしも因果応報とはならない、それどころか善が悪をもって報いられることも往々にしてあることをコヘレトは冷厳と見つめています。しかも、人が生きて行く先にある逃れ難い「死」の存在は、人のすべての労苦を「空しい」ものとすると言います。「風を追うようなものである」と。◇このコヘレトの人生観察は、ある意味で魅力的です、共感をそそります。実にこの世はさまざまな理不尽がまかり通るところがあるからです。そうした世にあって彼が推奨する生き方とはどのようなものか。彼の言うところはこうです。「神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足すること」(17節)です。◇これは、足るを知る(知足)生き方と言うものですが、ここには「神の賜物」として与えられたこの人生を、神に感謝しつつ謙虚につましく生きる、人生の「ささやかな喜び」があります。「幸いなる哉、わが人生」です。しかし、コヘレトはこれをもって死の問題を解決したのではありません。◇人生の「労苦」の果てに待ちかまえている死の問題をどうしたらいいか。キリストはこの「死」に勝利された方です。キリストを受け入れ、主に繋がることによってのみ真の人生の幸いが与えられます。

    JJ  主 は ま こ と の ぶ ど う の 木 JJ                

2014.9.21  ヨハネ15:1-10(松田和夫牧師)

 

◇「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(5)パレスチナの地にあって、オリ-ヴ、いちじくに次ぐ樹木はぶどうの木です。ある本には「ほとんどパレスチナの光栄とその豊産を表象する」とあります。聖書の中でもさまざまに活躍?します。◇ぶどうの木は生命の木でもあります。旧約の民は神に選ばれた自分たちをぶどうの木に譬えました。けれども預言者たちにはイスラエルの民は腐敗したぶどうと言われていました。(イザヤ5:2)ここで主イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と言われています。本当にイスラエルの民を救うお方であることの宣言です。わたしたちはその枝であり、主と「つながり」、主に「とどまる」ところに豊かな実を結ぶものとされます。◇つまり、主イエスとの交わりにおかれるところで初めてわたしたちは真に神の命に生かされ、また、神の御心を行う者とされます。「わたしの言葉があなたたちの内にあるならば」(7節)わたしたちの願いは聞き入れられます。わたしたちが主から離れているとき、わたしたちは何一つ神の御心に近づけないのです。◇ぶどうの木は幹から直接出た一番枝以外は切り落とされると言います。わたしたちは二番枝、三番枝になっていないでしょうか。一番枝になるとは、わたしたちが主の御前に心砕かれてへりくだり、ただ主の言葉に従い御もとに行くことです。

      JJ た だ 一 つ し か な い 慰 め JJ                      2014.9.28 第二コリント1:3-7(松田和夫牧師)

 

◇神は慰めの神です。この箇所には何度も「慰め」が出てきます。原語(動詞)ではパラカレオ-です。パラは「傍(そば)」の意、カレオ-は「呼ぶ・招く」です。「慰め」とは、神がそばに呼び寄せ、ご自分が味方になってくださることです。つまりは、共にいてくださるということ、それが慰めのもとです。◇この世には人の慰めでは癒されない悲しみがあります。予測もなく起こる不治の病や事故だけでなく、生きることに伴うさまざまな悲しみもあります。中でも愛する者の死に遭遇することは、この世の何ものによっても慰めることのできない悲しみです。たとえ健康に過ごしていてもいずれは死が待ち受けている、そのことも悲しみ・苦難ではあります。◇『ハイデルベルグ信仰問答』の第一問は、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」です。その答えは、自分の生も死もすべて「キリストのものである」ということです。それは、自分が十字架のキリストにより、罪贖われ、救われてある身であるということです。そのことが、「ただ一つの慰め」・救いとなるのです。◇パウロは、この「神からいただく慰め」をもってコリントの信徒たちを慰め、励まします。このキリストの慰めを通して、互いに苦しみも慰めも「共にする」ことができると言います。それこそは、主にあっての愛の交わり(コイノ-ニア)です。

    JJ罪 に 死 に、キ リ ス ト に 生 き る JJ                

2014.10.5  ロ-マ6:1-8(松田和夫牧師)

 

◇洗礼とは、ギリシア語でバプテスマです。その本来の意味は水の中に溺れること。ですから、洗礼のことを「浸礼」とか「溺死礼」と言ったりもします。「その(=キリストの)死にあずかるために洗礼を受けた」(3節)とは、「その死の中にバプテスマされた」の意味です。キリストと共に溺れ死ぬイメ-ジです。私たちは、自分で自分の罪に死ぬことはできません。キリストの死と共にすることによって、罪から救われるのです。◇水の中から上がる時に、キリストの復活にあずかります。そして、新しく神の命に生かされ、生きる者とされます。バプテスマは、そのような救いの業を形あるものとして表現したもの、信仰告白のいわば象徴としてあります。◇罪は、「キリストと共に葬れ」たと、パウロは言います。決定的に死なしめられたと。だから、もはや罪を犯すことにはならないと。救われるとは、神の恩寵のもとに置かれることです。救われているから、何をやっても許されるということにはならないのだと、パウロはここで強調しようとしています。◇もちろん、人間は救われたといっても、罪なことを全くしなくなるのではありません。たとえそうではあっても、神の恵みのもとにあるとき、人はそれに信仰をもって応答していきます。神による真の自由と、放縦は全く異なります。救われて恵みを受け、神に仕える者とされます。

   JJ  悩 み の 日 に わ た し を 呼 べ  JJ              

                   2014.10.12         詩編50:15  (松田和夫牧師)

 

◇この世ではキリスト者ならずとも、だれにでも生きる悩みや苦難はあります。しかし、神に召され神の救いにあずかった者であるがゆえに、キリスト者にとって苦難は言葉の真の意味において苦難となります。神を必要としない者にとっては、苦難は運命であり偶然のものでしかないのです。◇苦難は、「神のメガホン」(C・Sルイス)です。「悩みの日にわたしを呼べ」と、神は語りかけておられます。「おまえを救おう」と。その神の声に応え、神を信じて祈り、悩みも嘆きもそのままに神に委ねていくところに、神は救いの御業を起こしてくださる。それが実は礼拝の場であることを改めて覚えさせられます。◇主イエス・キリストは、そのような私たちのために一人ひとりすべての重荷を負って十字架にかかられたのでした。私たちもまた、その十字架を自らの軛として共に負って生きていくところに、救いの道が拓かれて行きます。救われた喜びは感謝となり、賛美へと湧き上がります。そして、「主を喜び祝う」真の礼拝へ向かわされます。それこそは「力の源」であるのです。◇詩編50:15は、そのような意味で、真の礼拝の核にあるものを教えています。心の底から主を賛美できるでしょうか。主の恵みが真に自分のものとなっているでしょうか。十字架はほかならぬこの自分自身のためであったという現実に立ちたいと願います。

    JJ  神 よ り 受 け た る 聖 霊 の 宮  JJ                   

       2014.10.26    第一コリント6:19-20 (松田和夫牧師)

◇今月は本教会にバプテスマが二度も与えられ、ハレルヤ!であります。これは「主を賛美せよ!」の意味です。なぜなら、このような出来事を起こしてくださったのは主であるからです。主のお働きによるものだからです。主に栄光あれ、です。◇神のこのようなお働きを、私たちは聖霊のお働きと言っています。父と子と聖霊、これが三位一体の神です。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(第一コリント12:3とあります。信仰を与えられると言います。信じるようになるのも、聖霊なる神の働きによるからです。◇眼に見えなくとも、私たちの霊的な部分に聖霊なる神は働きかけてくださる。それによって導かれるのが信仰です。聖霊は風のように、神の息として、私たちを触発してきます。神に心を傾ければ、神の霊は私たちを訪れ、私たちの内に宿ってくださる。パウロは「あなたがたの体」は「神から受けたる聖霊の宮」であると言います。「体」(ソ-マ)とは身体だけではなく、人格を含めて肉体を持つト-タルな意味での人間存在を言います。聖霊はそこに宿り、働きかけ、私たちの信仰を導いていくのです。◇聖霊の風に身を任せて霊的に新しくされるとき、命が新しくされ、世界が新たな姿をもって開けてきます。神の息を吸い込み、それに生かされていく。霊的に成長していきたいものです。

     JJ  い の ち の 風 に 生 か さ れて JJ                        秋の特別集会  創世記2:7他  (松田和夫牧師)

◇創世記2:7には、神は人間を「ひとつの土塊から造られた。そして、生ける息を、その鼻に吹き込まれた。こうして人間は、生ける魂となった。」とあります。この「神の息」によって私たちは呼吸をしているのです。生きていることのもっとも基本にある呼吸という命の働き、それは、神の息によると言うのです。◇人は生まれた時に息を吐き出します。そして死ぬ時に息を引き取るのです。いのちは、「息(い)の内(ち)」であるのです。「神の息」はまた、「神の霊」と同じことば、ル-アッハです(ギリシア語ではプネウマ)。さらにこれは「風」をも意味することばです。神の霊=神の息は、風のように自由に私たちを息吹き、誘います。◇この神の息・神の御霊に満たされるとき、神の良きものにあずかり生きる者とされます。けれども私たちは、そのことを忘れ、たいていが神から遠く離れて生きています。神の息が届かないところで生きている。それを主イエスは「心の貧しい人たち」と言います。ここで「心」とは「プネウマ」です、神の霊的な力から離れて「貧しい」ということです。◇しかし、そのような人たちをこそ、主は「幸いである」「天の国はその人たちのもの」と言われています。私たちがもっとも人としての低みにいるとき、神の力をいただくのです。その神の息・神の霊は風のように私たちに触れ、私たちを生かしてくれています。

      JJ  祈 り を 聞 か れ る 神  JJ                

     2014.11.9       ヨナ書23 (松田和夫牧師)

◇ヨナ書を読んでいるとヨナは何歳くらいなのかと思わされます。というのも、ここでヨナは神様から訓練を受けているかのようだからです。「主の懲らしめ」(ヘブル書)ということを思わされます。◇この第2章は、ヨナが神に祈った祈りです。神の命令に逆らったヨナ。大海に投げ込まれ、大きな魚の腹の中に閉じ込められ、陰府(よみ)にまで落ちたヨナ。「あなたの御前から追放されたのだ」(5節)と、ヨナは思います。しかし、そのようなヨナも「悩みのうちから主に呼ばわる」(口語訳)ことは許されていたのでした。◇ヨナの祈りは、神に聞かれ救い出されます。それは、ヨナになんの「義」(正しいところ)があったからではありません。ただ主の憐れみによります。だから、彼は祈りの最後に「救いは、主にこそある。」(10節)と呼んでいます。私たちも、祈りのさいごに「主イエス・キリストのみ名によって」と祈ります。それは、自分を顧みて自分にはどこにも神に祈る資格などないことを知っているからです。しかし感謝なことに、神は御自身の独り子を十字架に架け、そのような私たちのために救いの道を開いてくださった。この神の愛ゆえに、わたしたちは「陰府」にあっても「主に呼ばわる」が許されるのです。なぜなら主は「陰府」にまで降ってくださった救い主であるからです。まことに「救いは、主にこそある」のです。

 

       JJ  主 の 慰 め を 待 ち 望 む  JJ                

       2014.11.30      ルカ2:22-35 (松田和夫牧師)

◇今週からイエス・キリストのご降誕を「待ち望む」週、待降節に入ります。ユダヤの民が旧約の時代から待ち望んできた自分たちの救い主・メシアの到来が告げられます。うれしい事柄、喜びの時が来るのを待つときの気持ちは、ちょうど幼い子供がサンタさんの贈り物を待つときのようなものでしょう。ルカ伝には救い主である幼子イエスに出会った人たちのことが記されています。その一人シメオンの喜びは主を賛美する言葉となって表わされます。(29-32)◇彼は「イスラエルの慰められるのを待ち望み」続け、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と、聖霊により示されていました。彼は目の前の幼子イエスに「あなたの救い」を見ます。◇そう、クリスマスは、わたしたちそれぞれが、自らの救い主と出会う時です。それは、わたしたちを「慰める」方との出会いです。「慰める」とは、罪を贖うこと・救うことです。その出会いが、真にこの命を「安らか」に生きて生きぬく支えとなるのです。それは異邦人を含め「万民のため」の救いであります。人類一人ひとりに贈られる神からのすてきな贈り物です。◇クリスマスが近づいてきます。自分の周囲や世界を見渡すときに、今を生きているわたしたちが、どんなに主の慰めを「待ち望んでいる」かということを思わされます。心を静めて主のご降誕の時に備えたいと願います。

     JJ  主 が あ な た と 共 に お ら れ る JJ                

                  2014.12.7   ルカ1:22-38 (松田和夫牧師)

◇アドヴェントとは、ラテン語のアドベントゥス(到来)から来ています。また、英語のアドベンチュア(冒険)は、アドヴェントから派生していると言われます。主が来られる、それは一つの冒険です。神が肉体を取られる(受肉)こと、それは神の大いなる冒険です。神はそれほどまでに私たちを愛されたということです(ヨハネ3:16)。それはまた、人間を危機に立たせることでもあります。◇マリアは、まったく身に覚えのない大きな神の御業にあずかる者とされます。それは一つの試練でもあります。驚き、戸惑い、疑念、そして思い巡らし・・しかし「主が共におられる」ことを示されて、マリアはそれを主の恵みとして受け留めます。「わたしは主のはしためです」と。それは、主のなさる出来事のすべてを主にゆだねた者の姿でした。◇「事の起こるとき、わたしは常にそこにいる。」(イザヤ書48:16)わたしたちは事が起こった時、主が起こされたことと分かっていても、「主が共におられる」と信じているでしょうか。主イエスは嵐に遭った船の中で悠然と寝ておられた。弟子たちは「助けてください」と叫びます。主は言われました。「なぜ怖がるのか」「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と。◇主が共におられることを受け入れるとき、恐れは締め出されます。アドヴェント、それは主の到来を迎え入れ、私たちが変えられる時です。

      JJ  天 の 星 を 仰 ぎ て  JJ                

             2014.12.14   マタイ2:7-12 (松田和夫牧師)

◇「ひとつの星がヤコブから進み出る。」(民数記24:17)星はユダヤの民にとって旧約の時代から民を救うメシアの象徴として歌われてきました。アブラハムも「天を仰いで、星を数えてみることができるなら、数えてみるがよい」(創世記15:5)と、星を示されて主の祝福を受けています。◇占星術の学者たちは、東方の地から救い主を知らせる星を見て拝みに来きます。彼らの救い主との出会いは、星に導かれたものでした。救い主・幼な子のいる場所に星が止まったとき、学者たちは「喜びにあふれた」のでした。ここでは、星の光が大きな役割をしています。神の祝福を告げる「喜び」の出来事は、星の導きによることであるのです。◇わたしたちは、普段あまり星を仰ぎみることをしません。いつも頭上に星は光っているのに、地上の星を求めていないでしょうか。地上の光の輝きに心そそられていないでしょうか。星を仰ぎみる時、上から指してくる光に、わたしたちは自分の生涯を、信仰を、命を、主の計らいのうちにあって示されます。◇その光あるが故に、きょうを生きる恵みと喜びを与えられていることを知ることができます。苦難にあってもくじけず、不安にあっても恐れない勇気を受けることができるのです。クリスマスは、そのような星の光をわたしたちのもとに届けてくれます。待降節第三週、「主の民よ、喜べ、主は近い」。

        JJ 勇 気 を 出 し な さ い  JJ                

2014.12.28     ヨハネ16:33  (松田和夫牧師)

◇今年最後の主日礼拝です。一年の最後に、この御言葉を受けたいと願います。国の内外や、個人の今日明日にしてもさまざまの困難・患難は数えきれないほどあります。キリスト者ならずともこの世での戦いは避けられません。しかし「キリスト教の目的は人をして世に勝たしむるにあり」(リッチェル)と言います。主イエスは「世に勝つ」道を示されました。それは、人の道にあらずして神の道であります。◇主イエスは、ご自分が死んだ後に、弟子たちを襲う苦難を語り、励まそうとされます。「汝ら世にありては患難(なやみ)あり、然(さ)れど雄々しかれ。」と。「勇気を出しなさい」と。それは、私たちにも言われていることです。主は御自身がすでに世に勝たれているからです。「われすでに世に勝てり」と。◇この世で味わう私たちの恐れや不安は、すべて自分の中から出てきます。主は神の力を、神の愛を、私たちに身をもって(み言葉とみ業をもって)示され、悪の力・悪の霊を滅ぼし、私たちの罪からくる恐れと不安を追い出し、神の国へと招いて下さいました。◇十字架の死と復活は、そのような神の愛と招きを、私たちに神の御心として示された出来事であります。私たちは、自らの十字架を負い主イエスに従うところに、この勝利の道が開かれます。「おほよそ神より生まるる者は世に勝つ」(第一ヨハネ5:4)からです。

     JJ   福 音 を 信 じ な さ い   JJ                

  2015.1.4     マルコ1:14-15  (松田和夫牧師)

◇福音書の中でもっとも古いとされるマルコ福音書、そこでの主イエスの最初の御言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。これは、福音書全体の使信を要約したものとなってもいます。

「時は満ちた」とは、旧い「時」に新しい「時」が、すでに満ちていることということです。神の国の到来、それは神の御許から御子イエスがこの世に来られたことでもあります。◇バプテスマのヨハネは、「神の裁き」を免れるためのバプテスマを当時の人々に授けていましたが、そこには「福音」の告げ知らせはありません。主イエスの神の国の宣告は、当時のユダヤの民にとって「福音」=良き知らせ、でした。悔い改めは、神の方向へとすべての生きる根拠を転換することですが、それは、この福音を受け入れることと同時に起こります。◇福音は、神の新しい救いのみ業です、それは旧い救いの在り方を全く変えてしまったのです。神が御自身で働かれ、御子イエスの十字架と復活の御業を通して人々の救いを約束されたものでした。◇「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るため」(ヨハネ3:16)、神によって遣わされたイエス・キリストのその福音を信じる者は、悔い改めて、神にのみ信頼を置く者とされます。わたしたちは、この応答を迫られます。新しい年の初めに、この信仰を新たにしたいものです。

      JJ  天 の す み か を 着 る   JJ         

      2015.1.11     第二コリント5章1-10節 (松田和夫牧師)

◇地上の命を生きるわたしたちが、朽ちることのない命を神から賜ることを、パウロは「天から与えられるすみかを着る」と言います。これは不思議な表現ですが、パウロは多用しています。例えば「主イエス・キリストを身にまといなさい。」(ロ-マ13:14)とあります。地上で生きるわたしたちは「幕屋」(テント)に生きています。地上の命・生活、それは、弱く、はかなく、もろいものです。さらには、罪を宿しているのでもあります。◇この地上の命は、主イエスの十字架の死の贖いと復活を通して、それを我がために起こされた神の愛と信じることで初めて、わたしたちは永遠の命・朽ちることのない命に入れられます。それが「天のすみかを着る」ということです。そのことを「保証」するものが「聖霊」であると、パウロは言います。保証とは手付金のことです。救いの完成は「終わりの日」に再臨の主によって完成すること(全額が支払われること)を、聖書は証言しています。◇地上の命を、完全ではないにしても既に与えられている「天のすみか」として生きる者がキリスト者でしょう。それは永続する「眼にみえないもの」を信じる信仰によって歩むことですし、既に与えられている聖霊によって「心強く」されて(確信をもって)生きることでもあります。パウロに倣い、わたしたちも心強くされて信仰の生を歩みましょう。   

 

       JJ () () に ま で お ら れ る 方 JJ         

             2015.1.18 詩編139篇1-12節 (松田和夫牧師)

◇人は死んだらどうなるのか、だれしもそのような不安があります。神を知らない人は言います。「人は死んだら塵になる」「死ねば石(墓石)になる」などと。キリスト者は死後の希望に生きる者です。◇宇宙を含め天地万物の創造主なる神は、人が母の胎にいる時からそのすべてを御存知です。

人の肉体から精神まで、いったいだれがこのように造り得たでしょうか。わたしたちは神の命の内に生かされている存在です。そうであればこそ、神がわたしたちにいつでもどこででも「共にいてくださる」それこそ、死んだ後にも。◇「陰府(よみ)」とは、旧約聖書では人間が死んだ後に行く影が支配している世界のことです。詩編では、神の支配も神の恵みも及ばない所として詠われています。しかし、この詩では、主はその陰府にあっても「あなたはそこにいます」と告白します。神の遍在、どこまでも神が共にいてくださると。◇新約では、そのことは陰府に下り三日の後に復活したイエス・キリストに証しされています。だから、もはやわたしたちには「陰府」はないのだと言えます。イエス・キリストにおいて神が共にいてくださることを、わたしたちは聖霊によって知ることが許されています。◇主がどこであっても「共にいてくださる」ことほど心強いものはありません。主が共におられると確信するところに、闇も光に変えられます。

       JJJ  強 く、() () し く あ れ  JJJ         

           2015.1.25  ヨシュア記1章1-9節 (松田和夫牧師)

◇「出エジプト」の後、荒野の40年をモ-セは主と民との間にあって「かたくなな」イスラエルの民を神の約束の地カナンへと導きます。けれども、モ-セはカナンの地を前にして120歳でその生涯を終えます。主は、モ-セの従者ヨシュアを用いてカナンの地へとイスラエルの民を侵攻させます。◇ヨシュア記は、神の民イスラエルが神の約束の地カナンを、主に導かれて手に入れるまでの記録です。そこにはヨルダン川を渡る試練が待ち構えていました。そこにおけるヨシュアの言動に、わたしたちは自らの信仰のあり方を示されます。◇まず、彼らの行動のすべてが主の語りかけによる導きにかかっていたことがあげられます。主はヨシュアに命じます。「今、あなたは・・共に立ってヨルダン川を渡り、・・行きなさい。」と。事に当たって主の言葉が先行し、即座に与えられます。その時を逃さず行動へと促されます。ヨシュアには恐れがありました。◇わたしたちも現実の生活の中で渡らねばならない川を前にして、不安と恐れに捉えられます。しかし問題は、そこで御言葉に聞き従い、一歩を踏み込むかどうかです。自分の計らいを先にせず頼らず、御言葉に依り頼むヨシュアの「強く、雄々しく」ある姿勢をわたしたちは求められます。御言葉を「昼も夜も口ずさみ」「忠実に守ること」、そこに信仰の勝利へと導かれる秘訣があります。

       JJJ 民 は 皆、(とき) の 声 を あ げ よ JJJ         

          2015.2.8     ヨシュア記6章1-5節 (松田和夫牧師)

◇神の約束の地カナンを占領するイスラエルの民の戦い、それはすべてが主の主導のもとに進められます。最初の戦いは、エリコ攻略でした。主が命じられた攻略方法は信じられないような荒唐無稽?なものでした。城壁の周りを一日一周行進する、それを6日間つづけ、7日目には七周回って祭司の角笛が鳴るや勝鬨の声をあげよ、と。しかし、それによって見事に城壁は崩壊します。◇彼らの行為は、礼拝行為でした。礼拝は神への祈りと感謝の賛美とをささげる。主が与えると約束されたことを信じて、主の命令に従うこと。「わたしが鬨の声をあげよと命じるまでは、叫んではならない。」(10)そこには祈りと主への信頼があります。◇わたしたちの生きる現実においても、さまざまな「壁」があります。エリコの城塞のごとき。それをどのようにして打ち崩すか。だれでも自分の力を信じ、自分の計らいを先立てて立ち向かおうとしがちです。けれども、真の勝利は主に依り頼むところにあることを、ここで示されます。御言葉に導かれ、主にゆだねて祈るところにこそ、まことの勝利は与えられます。◇どうにも動かないと思えた壁が、そのとき動くことを体験的に知らされるのです。真の勝利とは相手(対象)を具体的に打ち崩すことではなく、自分が置かれている状況が好転することです。主に依り頼み祈るところに客観が動くのです。

     JJJ  知 ら れ ざ る 神  JJJ         

          2015.2.15 使徒言行録172229節 (松田和夫牧師)

20143月にアメリカで公開された映画「神はいるのか」が日本でも評判になっています。原題は「God is not dead」。この映画の中では神の存在証明ということが一つのテ-マとなっていますが、それだけでなく、福音的な内容のものとなっている点も見逃せないところです。◇聖書の神、イエス・キリストにおいて啓示された神は、自然神でもなければ理性的に証明される神でもありません。宇宙を含めてこの世界(コスモス)を創造された方です。のみならず、被造物である人間に、救い主としてキリストにおいて私たちの許に来られた父なる神です。そのことを聖書は証ししています。◇今朝の聖書箇所でパウロは、そのことを簡潔にまとめてアテネの市民に演説しています。彼らの思想は人間中心的でした。アテネの町には、ギリシアの神々を象った偶像、また神殿があちらこちらに建てられていました。パウロはそれを目にして「憤慨した」(16)とあります。偶像の神とは、人が人の手で造りだしたものです。人はそのようなものに感情移入し願いや慰めを得ようとします。◇しかし、キリスト教の神は眼に見えない神です。そうであればこそ、いつどこででも祈ることができ、神は私たちを護り導くことができます。それは、ここでパウロがいみじくも引用するように「我らは神の中で生き、動き、存在する」そのような神です。

 

       JJJ き ょ う、救 い が お と ず れ た  JJJ         

                   2015.2.22 ルカ19110節 (松田和夫牧師)

◇「徴税人」「ユダヤ人」「金持ち」「背が低い」。これがザアカイについてわたしたちが知らされていることです。ザアカイが生きていた彼の現実はそこから来ていました。人にはそれぞれに自己の置かれた境遇・状況があります。みずから招いたものもあれば、宿命として与えられたものもあります。ザアカイは、自分の現在に深く思い屈するところがあったのです。◇彼はなにがなんでもイエスを一目見たいと願います。「走って先回り」し、

「いちじく桑の木」に登ります。子供っぽいとかではなく、それは彼の必至の思いを表しています。求める心に主はただちに応え、「ザアカイ、急いで降りてきなさい」と声をかけられます。その時のザアカイの喜びようが伝わってくるようです。◇主のこのひと言がいかに彼の屈した思いに響いたかを、わたしたちは彼の告白に示されます。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」ザアカイはこれまでの自分中心に生きて来た生き方をここで悔い改めさせられます。主を受け入れるところに罪の赦しと新たな命に生きる神の平安が与えられます。◇わたしたちもそれぞれの生きる現場でザアカイと同じ心の重荷を持っています。そのとき、まっすぐに主を求めていく、ザアカイのように他を顧みず突き進むところに、主の呼びかけを受け、自分の重荷を除かれ主に向き直る生き方へと導かれます。

 

       JJJ  神 の 静 か な 声   JJJ         

              2015.3.1   列王記上19913節 (松田和夫牧師)

◇ユダヤの国はダビデ王の死後ソロモンが王に即位し、国として絶頂期を迎えます。しかしソロモン王の死後、国は北のイスラエルと南のユダに分裂します。預言者エリヤが活躍するのは北イスラエル王国のアハブ王の時代です。◇この治世に「主(ヤハウェ)」を神と信じるユダヤの民の信仰は衰退し、異教徒の信仰、特にバアルの神信仰が勧められました。王妃イゼベルはバアル神を信仰し、バアルに付く預言者が多数彼女のそばには侍っていました。◇ユダヤの「主なる神」の預言者エリヤは、18章では一人でバアル神の預言者450人と対決して勝利し、彼らを全滅させます。しかし、いざイゼベルから殺されそうになると彼は逃げます。彼はそれまで預言者として大いに活躍しましたが、今は現実に対する自分の無力を思い知らされ絶望のあまり死さえ望んでいます。◇そのエリヤに神は御使を遣わしパンと水を与えて励まします。神の山ホレブにたどり着き、洞穴に身を隠したその夜に主の御声が臨みます。「エリヤよ、ここで何をしているのか」と。

◇燃え尽きそうになっていたエリヤは主からの声を受け、再び神の器として用いられ神の使命に生きる者とされます。わたしたちもさまざまな生きる場面で自分の力の限界にぶち当たり、燃え尽きそうになります。しかし、神の御声を聞くときに自分を示され、力を得て再び生き返る者とされます。

 

      JJ 信 仰 が な く な ら な い よ う に  JJ         

                     2015.3.8      ルカ223134節 (松田和夫牧師)

◇今年のイ-スタ-は4月5日です。その三日前が主の受難日、受難への道をたどられるこの時期を教会暦ではレントと呼びます。この聖書箇所は、主が最後の晩餐を弟子たちとともにされているその席上での主イエスのいわば遺言のような言葉です。主はペトロに「あなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言われます。めずらしい主の御言葉です。◇ペトロとは「岩」という意味です。主イエスはペトロを教会の礎としようと言われたことがあります。そのペトロはしかし、さまざまの試練を通らされます。主のみ言葉を受けて死をも覚悟したようなペトロの言葉を主は深い愛をもって受け止められます。主はペトロという人間のすべてを御存知でした。◇そうであればこそペトロのことを主は祈られたのです。「信仰が無くならないように」と。わたしたちも信仰が危うくなる時を体験します。信仰があると自分では思っていましても、いざと言う時にそれに裏切られることがあるのです。自分を過信するところに落とし穴がある。◇ペトロはこの後、主を三度も否むことになります。それはペトロが信仰を試みられた時でした。信仰を支える根拠は自分の中にはないことを、ペトロは真に身をもって知ることになります。そしてわたしたちもここで同じく示されています。主の祈りに支えられて初めて信仰もあるのだということを。

       JJ キ リ ス ト の 体 を 建 て 上 げ る JJ         

                     2015.3.15          エフェソの信徒への手紙411-16節 (松田和夫牧師)

◇パウロは教会を「キリストの体」であると言います。キリストは「教会の頭」であると。教会(ギリシア語でエクレシア)とは主により招かれ、救いに与った者たちの群れのことです。ですから、キリストが主で、わたしたちは客のようなものです。◇わたしたちは「キリストの賜物のはかりに従って」(7節)賜物を一人一人に与えられています。主はわたしたちの賜物をどれ一つ欠けることなく用いられて、御霊によってご自身の体を造り上げるよう導かれます。それはちょうど、わたしたちが人体の各一部分として組み合わされて働き、一つの体を成長させていくようなものであると、パウロは言います。◇キリストの体である教会が成長していくことは、同時に、わたしたちが「聖なる者」(信徒)として、みずからの成熟と成長を遂げていくことでもあります。それらすべてを導かれるのは主ご自身(御霊の働き)です。ここでは、キリストがわたしたちの成長の目標であり、同時に導き手でもあります。◇わたしたちはキリストに召された者として感謝してさまざまな献げものをします。礼拝、賛美、祈り、献金、さまざまな奉仕、伝道、etc、そうしたすべてがキリストの愛と御霊によってなされています。キリストは「すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられ」(6節)る「教会の主」であるのです。L

       JJ  何 に 望 み を か け る か  JJJ         

                                  2015.3.22               詩編39篇 (松田和夫牧師)

◇「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は、舌を制して悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず・・」(第一ペトロ3:10)とあります。

この詩の作者は、「神に逆らう者」を目の前にして、「口にくつわをはめ」ます。まさに「舌を制して悪を言わず」です。悪に悪を返さない。それよりは、黙して言わずのほうが神の御心にかなう、と。◇けれども、「苦しみがつのり心は内に熱し」とうとう彼は神に訴えます。それは、相手を非難することばではなく、自分のいのちのはかなさ、空しさ、その徹底した認識の言葉です。空しいという言葉はここで三回も出てきます。◇人はそれほどに悪に責めさいなまれるとき、苦しさからかえって、自分の生きる空しさへと追いつめられてしまいます。挙句に、自分の心の底にある罪に気付かされ、そこからの救いを求めて「あなたを待ち望みます」と告白するに至るのです。◇自分の命に敵対してくる者、悪しきもの(病なども)に対して、わたしたちは自分の正しさを守ろうとします。しかし、神の御前に義しい者はひとりもいないことを知らねばなりません。まず自分の罪が除かれなければ、神からの安らぎも力も注がれてはこないのです。そのような救いを求める祈りに応えられる方はキリストしかいないことを、わたしたちは知っています。この詩編はキリストの十字架を照らし出します。

      JJ () (こころ) の ま ま を な し 給 へJJ         

               2015.3.29  マルコ14章32-42節 (松田和夫牧師)

◇今朝は受難週礼拝です。この聖書箇所は「ゲッセマネの祈り」と呼ばれます。主イエスは捕えられ裁判にかけられ十字架への道を歩まれることになります。その前夜、主は激しい恐れと悲しみに襲われています。そして、地面にひれ伏して祈られました。「この杯をわたしから取りのけてください」と。しかし、主はご自分に課せられたこの試みに対して、その後、次のように祈られました。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と。◇この祈りは、わたしたちにも「祈り」というものを深く教える祈りであります。わたしたちはさまざまに願うことがある時、自分の願望を先だててしまいがちです。この「しかし」の後の祈りを、わたしたちも祈れるようでありたいと願います。◇主イエスはここで、神のご意志とご自分の意志との間で、祈りの中で戦っておられた。それは霊的な戦いの祈りでした。「御意のままに」これは神のご意志が為されることを受け容れ、神のご意志にご自分をゆだねたことばです。主イエスと神との不可分で強い信頼の関係を、それは明かしています。◇それにしても弟子たちは、この場にあって眠り込んでいます 。わたしたちも、主の執り成しの祈りがあるところで霊的に眠っていないでしょうか。主はこの後、十字架への道を敢然と進まれました。「時が来た。・・立て、さあ行こう」と。

       JJ  ど こ に 愛 が あ る の か   JJ         

              2015.4.12  第一ヨハネ:4章7-12節 (松田和夫牧師)

◇教会の墓石には「神は愛なり」と刻まれています。聖書に言う「愛」とはアガペの愛です。その愛は「神から出るもの」と、この箇所で言われています。イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)と命じられました。これもアガペの愛です。それはわたしたち人間が本来もっている愛とは違います。敵をも愛する愛です。◇そのような神の愛はどこに示されたのか。イエス・キリストの十字架の出来事、そこに顕(あらわ)されたと言っています。人間たちの罪を償ういけにえとして神の御子イエスを遣わし、その十字架の死と復活の御業を通して神の愛は示されたのだと。「ここに神の愛があります」(10)と。◇それは、思いがけなくも驚くべき神のなさり方でした。わたしたちの罪を赦し、罪の縛りから救い出し、新たな神の命に生きる者とされた、そのための十字架であったことをここで示されています。神の愛とは、それほどまでに人間を愛された無償の愛であることを、わたしたちは知らされます。◇その神の愛をわたしたちがキリストに従って生きていく時に与えられ、みずからの内にキリストの霊を受け容れ、それとの交わりの内に置かれる時に「互いに愛し合う」ことができる者とされていきます。神の愛は十字架を通してわたしたちの内に流れ来て、他者へと溢れていきます。

         JJ こ の 宝 を 土 の 器 に () て り JJ         

              2015.4.19  第二コリント4:5-12 (松田和夫牧師)

◇「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(7)と、パウロは言います。パウロほど自分の弱さを知っていた者はいないと言われます。「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(12:9)とまで彼は言っています。しかし、そのパウロはかえってその故に強かったのです。「四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられ」(8)ることはなかったのでした。なぜなら、パウロはその身にイエスの福音である「宝」を納めていたからです。◇この宝こそ、神の「並外れて偉大な力」(7)としてのキリストの福音だからです。パウロならずとも、人は皆「土の器」、欠けやすく、もろく、貧しい「器」であります。けれども、そのような私たちを、神は良しとされ、その弱さを通して神の測り知れない力を表してくださる。自分を金や銀の器にするところには、そのような力は働かない。◇「生きている間、絶えずイエスのために死にさらされて」(11)いたパウロの、福音伝道者としての強さは、むしろその弱い「土の器」たる所にありました。神のなさることはこの世の人間の知恵を超えています。たとえ「土の器」であろうと、キリストの福音のために生きる時、現実の失望は希望に変えられ、「打ち倒されても滅びない」(9)命に生きる者とされていきます。弱さの中に働く神の力を覚えましょう。

 

        JJ 風 は 思 い の ま ま に 吹 く JJ         

           2015.4.26 ヨハネによる福音書3:1-12 (松田和夫牧師)

◇「風は己が好むところに吹く、汝その声を聞けども、何処より来り何処へ往くを知らず。」この風は神の聖なる霊でもあります。聖霊の風、それはわたしたちの思いを超えてわたしたちを訪れ、わたしたちを霊的に変えてしまいます。◇ニコデモは「神の国」に入ることを願っていました。それは、永遠の命に入ることでもあります。「イスラエルの教師」であった彼は、主イエスが言われたことを理解できませんでした。律法の教えに忠実であった彼は、「新たに生まれる」ことがどのようなことであるのか、ついに分からなかったのです。「水と霊とによって生まれなければ」と、主は言われます。◇「神の国に入る」それは、「肉」のままの人間には不可能なことでした。神の力、上からの力、すなわち聖霊なる神の力を受け、それによって人間の生きる根底が変えられなければできないことでした。つまりは、キリストの十字架の力によらなければ、ということです。◇神の聖霊の風は、神の自由・「思いのままに」吹きます。わたしたちは、どこでそれをキャッチするのでしょうか。わたしたちが、自分の力に無力を感じるとき、思いがけない所で風は吹いて来て、わたしたちのちっぽけな思いを吹き飛ばし、そのつど新しく魂を生き返らせてくださる。たいせつなのは、愚かな肉の眼を信じることではなく、霊の眼で神様の導きを信じることです。

       JJ  キ リ ス ト に あ り て 一 つ  JJ         

            

        2015.5.3   ロ-マの信徒への手紙12章1-8節 (松田和夫牧師)

◇見出しに「キリストにおける新しい生活」とあります。キリスト者とは古い自分を悔い改め、「キリストと結ばれ」「新しく創造された者」(第Ⅱコリント5:17)者のことです。それ故、キリスト者は自分自身を神に献げる生活を営む者とされます。「この世に倣う」ことなく、どんな時どんな場所にあっても、主を見上げ主の御旨に適う生き方をするようパウロは「勧め」ています。◇しかし、そのように生きるには「心を新たにして自分を変えていただ」かねばなりません。これは心機一転ということではありません。古い自分を十字架につけて、新しく神の霊的な力を受けて、自分が心底から変えられることを意味します。キリスト者の生き方(倫理)の基盤がそこにあります。自分が変えられるのは、あくまでも神の恵みによることです。◇そこからパウロは教会における信徒同士のあり方についても語ります。「キリストにありて」生きる者であるとき、私たちは自分を過大にも過小にも評価することなく、授かった賜物をお互いのために用い、それを通して主のために奉仕する者とされます。それぞれの賜物も主の恵みによっていただいたものであるのです。◇教会は「キリストの体」です。その一つ一つの部分()としてわたしたちは自分の受けた賜物を生かしていく、そこに信徒どうしの主にある交わり、また教会の一致がつくられていきます。


       JJ パ ン く ず ほ ど の 恵 み  JJ         

                             2015.5.10   マタイ15:21-28(松田和夫牧師)

◇「母の日」の起源は1907年米国ウェストバ-ジニア州南部ウェブスタ-市のメソジスト教会でアンナ・ジャ-ビスさんが、亡くなった母親の記念礼拝で赤のカ-ネ-ションの花束を遺影に飾り、参列者にも配ったことにあります。翌年には、5月の第二日曜日を母の日とすることが合衆国議会で承認され、米国中でこの日に「母の日」礼拝をおこなうよう広まっていきます。日本には大正時代初期に紹介され、日本の教会でも広まって行きました。◇「カナンの女の信仰」とは異邦人にもイエスの福音が広がっていくことを物語っています。神に選ばれたイスラエルの民にまず福音は宣教され、しかる後に異邦人へと広められると、そこには神のご計画があった。それは「あなたたちを選び、御自分の宝とされた」「主の愛ゆえ」(申命記7:6,8)のことであると。◇主イエスは、女の切なる懇願に対して一見冷淡な対応を示されます。けれどもそれは、神の拒絶を忍耐することで女の信仰が鍛えられ、真に神の恵みのなんであるかを知らしめられる試練となります。◇こちらの信仰によって神がいいようにしてくださる、それが信仰なのではなく、神の御心にこちらが従い、へりくだり、御心に服従するなかで、御心のなるのを待ち望む、そこに神の恵みは与えられる。女は「小犬もパン屑はいただきます」と、主の恵みを確信させられたのです。

       JJ 教 会 に 生 き る   JJ         

         2015.5.17  マタイ16:13-18/使徒2:41,42,46,47   (松田和夫牧師)

◇今朝の礼拝は「春の特別集会」礼拝です。テ-マは「ありたい教会へ」これからの私たちの教会を展望しよう、そのようなモチ-フからのものです。私たちの福岡有田バプテスト教会は3年後に創立40周年を迎えます。◇30周年記念の時の写真集があります。その当時まだ幼児や小学生であった者も、今はもう中学生、成人へと成長しました。それは教会自体にも成長のサイクルがあることを教えます。この間、天に召された兄弟姉妹方ももちろんおられます。そのように教会につらなる者たちは、すべて本教会における神の家族の一員であります。◇教会とは、建物そのものではなく、本来、キリストにあって一つにされ、ここに集わしめられた者たち・信仰者の群れのことです。そこでは、使徒言行録に見る初期のキリスト者たちのように、神のみ言葉に聴き、賛美し、主のパンを裂き、祈り合い、それらを通して相互に交わる、そのように仲間において成り立っていきます。◇信仰(生活)は信徒同士の交わりを通して養われていくものです。孤立した信仰は弱いです。「教会の力」というものがあります。主にあって共に礼拝に与る、主への奉仕に共に励む、そこに真に信仰の喜びがあるからです。たとえ身は教会から離れていても、私たちは祈りによってつながっています。教会に生きる人生こそ主に祝福される人生と言えるでしょう。

       JJ 霊 の 思 い は い の ち と 平 安 JJ         

               2015.5.24       ロ-マ8:1-11   (松田和夫牧師)

◇使徒言行録2:1-4には、キリストが天にあげられた後に、父が約束された聖霊が降ったという「聖霊降臨」の記事があります。過越祭から数えて50日目の五旬祭の日に起こったためにこれを「ペンテコステ(ギリシア語で50日目の意)」と呼んでいます。この後、キリストの弟子たち・信徒たちは、教会を起こし福音伝道の業に励みます。その意味で「ペンテコステ」は「教会の誕生日」です。◇聖霊が降ってバプテスマを彼等が授かったように、今日でも、わたしたちは信仰に入り聖霊を与えられています。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和(平安)です」とパウロは言います。ところが、わたしたちは「聖霊の思い」ならぬ「肉の思い」に縛られて生きているところがあります。そのため現実の生活の中では、思い煩いが絶えない、心に平安が来ないことが多いのです。◇しかしパウロは、私たちが「今や、キリスト・イエスのうちにある」ということを強調しています。もはや「罪に定められることはない」のだと。そうであるなら、そのように生きなさいというメッセ-ジがここにはあるのです。◇主は「求めよ、さらば与えられん」と言われました。それは「聖霊」が与えられるという約束です。この御言葉をしっかりと掴み聖霊を求めていきましょう。御言葉に従うところに聖霊の力が与えられ、そこに命と平安が与えられます。

       JJ  レ ホ ボ ト へ の 道  JJ         

             2015.5.31         創世記26:15-22   (松田和夫牧師)

◇「わたしはあなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(出エジプト記3:6)モ-セに顕れた神はこのように言います。聖書の中で、父アブラハム、子ヤコブと較べ、イサクはどちらかと言えば目立たない存在です。「平凡な人イサク」(沢村五郎)です。しかし、人生においては、実は平凡ほど尊いものもありません。◇イサクには、父アブラハムに約束された神の祝福が与えられていました。彼の人生は波乱万丈ではなかった。彼の性格は柔和・温順であった。失敗もあり、人間的な弱さもあったのです。しかし、そこにはある種の強靭さがあったことも事実でした。それは、何よりもこの「井戸」争いをめぐる時の彼の忍耐と穏健さに現われています。◇彼は「エセク(争い)」「シトナ(敵意)」の苦い体験を味わいながらも、遂に「レホボト(広い場所)」を主から与えられます。そこに至るまでに、彼の心はどれほどの「泥」をかぶったか知れません。けれども、主はそのような、心は泥まみれのイサクに伴われて、「レホボト(解放)」へと導かれました。◇この世に生きるときに、私たちも幾度も「泥」をかぶる体験を通らされます。主の祝福は苦難を伴います。それは信仰の訓練でもあります。イサクが手にした祝福は主の御言葉に従うところに与えられたものでした。「幸いなるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん」。

        JJ  身 を 洗 っ て 清 く な れ  JJ         

                        

                2015.6.7  列王記下5:9-14  (松田和夫牧師)

◇アラム国の将軍ナアマン、彼は勇士であり、地位も財産もあったようであります。しかし、彼は「重い皮膚病」を患っていました。彼の運命はイスラエルの一人の少女の一言によって変えられました。「サマリアの預言者のところにおいでになれば」癒してもらえましょう、と。◇預言者エリシャによる癒しの奇跡。しかし、それはエリシャが何かをどうかしたのではなかったのです。ただ、神からの預言「ヨルダン川に七度身を浸す」ことでした。そんなことで病が言えるとはとうてい思えない。ナアマンは憤慨して引き返そうとします。けれども、主は彼の家来たちをして彼を諌めます。「身を洗え、そうすれば清くなる」単純なこの一言にナアマンは回心させられ「神の人の言葉」に従います。癒しはそこに起こるのです。◇単純な神の一言に私たちが素直に従えるかどうか。自分の賢しらを立てようとするところに不信仰が忍び入ってきます。主イエスは「アバ父よ」と祈られました。◇大切なのは、直面する事態を前にして、自分を回心・悔い改め(身を低くして神に遜り)、ただ主に委ねることです。ナアマンの体がもとに戻ったとは、神との関係が修復されたことを意味します。そのとき、「子供の体のようになり、清くなった」のです。信仰は本来単純なものです。ただそこに至るまでに、わたしたちは十字架を通らされるのでもあります。

      J い と 小 さ き 者 の 一 人 に JJ         

                     花の日礼拝     マタイ25:31-40  (松田和夫牧師)

◇教会行事としての「花の日」は、1866年米国メソジスト系教会において始まりました。この日は花で教会を飾り、礼拝後に子供たちに病院や社会施設などを訪問させたと言います。子供の信仰育成の目的であったため、教会ではこの日が「子供の日」とされました。◇花を届けること、それは小さな愛の行為ですが、そこに心をこめることで、イエス様の愛をたたえ、わたしたちの愛の行いを確認させられます。主イエスは「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われています。主の愛は、この世のいと小さき者、低きにある者のところにあります。神の愛は「高ぶらない」「自分の利益を求めず」とある通りです(第一コリント13:4,5)。◇助けを求めている人のそばに寄り添い、自分の力のできる限りのことを差し出すこと、それは「正しい人」(神に義とされた者)の取るべき行いでしょう。そこにあっては「いつ」それを為したか、それさえ覚えないところがあります。ただ、主の御心のままに、主の愛に促されてそれを行うとき、わたしたちは主と出会っているのです。そのときのわたしたちの力は、神の力が一緒に働かれる力となっているのです。◇主が共におられる、それは主が共に働かれるということです。わたしたちの力は微々たるものです。間違いも犯します。へたばる事もあります。でも、主の御心において動くときに、キリストの愛を表しているのです。

 

        JJ 苦 難 と 試 練 に 寄 り 添 う 方  JJ         

             

         2015.6.21     ヘブル書2:14-184:15-16 (松田和夫牧師)


◇出エジプト記で、神からの召命を受けてエジプトに遣わされるモ-セは、弁明して断ろうとします。しかし、神は言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる。」(3:12)主がわたしたちと共におられるということ、これは旧約・新約聖書において何度も出てくる神のわたしたちに対する約束の言葉です。復活のイエスも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」マタイ2820)と言われました。◇わたしたちが、信仰を与えられ、イエス・キリストを主と信じ、主に従い仕えていくとき、主の御霊がいつも自分に伴われていることを信じているのです。ですから、さまざまな悩みや試練に立たされるときも、御霊なるキリストに自らを委ねて導かれ、力をいただき、忍耐し苦難を克服していくことができます。◇人生の岐路にあるとき、また、病にあるときも、そして最大の苦難である死を目前にするようなときにも、主が共におられることが、わたしたちの最大の支えとなります。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」(詩編23)者とされるのです。主イエスは「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになる」(18節)からです。◇主は、わたしたちの肉の痛み、心の苦しみ、弱さに「同情する(=共感する)」ことのできる方であればこそ、

いのちの最後にいたるまで、力強くも「慈しみ深き友なるイエス」であります。

        JJ  み 心 の 天 に な る ご と く  JJ

         

           2015.6.28      マタイ6:9-13 (松田和夫牧師)

◇「主の祈り」は、世界中ほとんどすべての教会において祈られている祈りです。わたしたちも事あるごとにこの祈りをします。あまりに慣れてしまい、ただ暗誦するだけになってしまっていないでしょうか。ある方は、その内容は汲みつくせず、ほとんど無尽蔵といってよいほど深いものがあると言っています。全体は、前半が神の事柄、後半が人間の事柄というように分かれています。前半の祈りが後半の祈りを内容的に支えているといった形です。◇「祈り」は神と人間との間での対話であるとよく言われます。この世で祈らずして生きていける人はいないでしょう。苦しい時の神頼みと言います。しかし、自分の都合のよいように神様を頼りにすることは、御利益的な祈りになってしまいます。◇「天の父」なる神に祈る時、わたしたちは偽らざる真の自分の姿を神の御前に差し出します。そこにおいて、神の「御名」だけが崇められることを祈る時に、わたしたちは何ものでもない自分に立ち帰らされ、神との親しき関係において、ただ神の国と神の御心(ご意志)が、わたしたちの罪深い地上の世界に成就していくことを祈ります。従ってこの祈りは、地上に生きるわたしたちの悔い改めと、主イエス・キリストの父なる神の御心への従順なくしては祈れない祈りであり、神の国の福音に与り、それを宣べ伝えるべき祈りであります。

      JJ  われらの日用の糧を与えたまえ  JJ         

          2015.7.5               マタイ6:9-13 (松田和夫牧師)

◇「主の祈り」後半は、人間の事柄についての祈りです。神の被造物である人間にとって体を養うための糧は絶対的に必要なものです、そのための配慮を神はされています。「人はパンのみにて生きるにあらず」とは、パンさえあれば・・という思い上がった考えを否定したみ言葉です。今日いちにちを真に神の恵みを受けて生きることの大切さを、この祈りは教えます。◇しかし、人はまた、「神のことば」によって生きるものであることも確かなことです。そこには人間のみが持つ罪の問題があります。「負い目」とはこの罪のことです。これが、神によって赦されることで初めて、人は人を赦すことができる者とされます。「わたしたちも・・赦しましたように」とは、自分が神に赦される資格ありと言っているのではなく、人の負い目も「赦しますから」(ルカ11:4)という決意を強調したものです。神からの赦しと人への赦しは、不可分の関係にあります。人を赦せないほどの者には神の赦しもまた、臨まないのです。◇信仰者の生活には「誘惑」、試練が伴います。この世を支配するものの力・「むなしきものに誘われゆく」私たちに、しかし、主は「わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と言われる。「悪い者から救ってください」とは、このキリストが共におられることの確信からする祈りであります。「御心をなし給え」の祈りです。

 

       JJ し か し、お 言 葉 で す か ら  JJ         

                       

           2015.7.12   ルカ5:1-11 (松田和夫牧師)

◇主イエスは「神の国」の福音宣教のため弟子を求められました。彼らは一介の漁師たちです。主は「あなたは人をとる漁師になる」と言われます。

「神の国」に入るのになにか資格を必要とするのではありません。ただ、主を信じて受け入れる者であればすべての者が招き入れられます。◇思いがけない大漁・神の圧倒的な恵みの業を受けて、シモン(ペトロ)は自分の罪を示されると同時に、そこから引き上げられます。主はそのようなシモン(とその兄弟たち)に「恐れることはない」とそのままに受け入れ、福音伝道の使命を与えられます。◇人がそれまでの自分を根拠とした生き方(罪)から神の恵みによる生き方(救い)へと180度転換して生きるようになる、それこそは奇蹟であります。大漁の魚に眼を奪われなければ、この神による奇蹟の業が身に迫ってきます。要は、それを我が事として身に覚えるかどうかです。◇奇蹟の業とは、神がこの世界を創造され、日々に創造され続けておられること(神の摂理)を信じるところに起こるものです。私たちの側にそれを神の御業として見ることのできる目があるかどうかです。シモンは主の言葉を受け入れることを通して神の恵みに包まれ、神の奇跡の御業を体験しました。彼は自分を新たなる者に変えられたのです。そのような者は「沖に漕ぎ出して」との主の言葉を聞く者であります。

       JJJ  お こ と ば で す か ら  JJJ          

 2015.7.19  夏の子どもデイ・キャンプ  ルカ5:1-6 (松田和夫牧師)


◇今年も「夏の子どもデイ・キャンプ」を迎えました。有田教会の特色の一つは、幅広い年齢層の教会員がおられるということですが、近年は、その子どもたちが成長し、小学生が少なくなってきました。それでも、教会になお小さな子供たちが与えられていることの恵みを感謝しつつ、これからもできるだけ多くの子どもたちが集う教会を目指したいものです。◇主イエスも子供たちを「わたしのもとに来させなさい」と言われているのは誰でも知っています。また、「幼な子のようにならなければ天の国に入ることはできない」とも言われました。子どもたちがそこにいること、それだけで希望を与えます。子どものころに心に刻まれた美しい記憶が、成長してから後にその人を救うことがあると、19世紀のロシアの作家ドストエフスキ-が言っています。◇わたしたちはキリストの福音の種を蒔きます。たとえ子どもには蒔かれた記憶はなくとも、神様が成長させてくださることをわたしたちは信じています。毎年行われていますデイ・キャンプですが、少しずつ変化もしてきています。その一つがプログラムに大人向けのメニュ-も入ってきたことです。子どもと大人が共に楽しんで神の庭で過ごすところにこのキャンプの意義もあるようです。◇子供たちは夏休みに入ります。どうか、今日一日の体験が夏の心の日記にしっかりと記されますように。

       JJ  堅く立って、静かにしていなさい  JJ          

          2015.7.26    出エジプト記14:8-18 (松田和夫牧師)

◇「出エジプト記」7-13章にはいくつものの奇蹟が記されています。それらはエジプト王ファラオとエジプト人にイスラエルの神「主」がどのような方であるかを知らしめるための懲らしめでした。主はご自身の民とするべくイスラエルの民を、エジプトでの奴隷状態から脱け出させるためにあえて回り道をとらせ、前方に海しか開けていない山あいの場所へと導きます。そこにはエジプトとのつながりを完全に断つべく主の深い計らいがありました。◇エジプト軍の追っ手が背後に迫るなか、不平を言って主に訴えるイスラエルの民を前に主は命じられます。「恐れてはならない」「静かにしていなさい」と。主の民とされてもいったん患難が襲うと、わたしたちもそれに眼を奪われ、すぐに主に不平を言います。しかし、そこで主の御前に静まり祈り、事態を主に委ねよと、主は言われます。なぜなら、そこでは主が働かれるからです。救いの業は主がなされるからです。◇ここではすべての出来事が主の導きによって起こされています。ファラオを「かたくな」にしたのも、また譲歩させたのも主の御業でした。主はただ「出発」を促されます。主の「大いなる御業」を体験したイスラエルの民は主を畏れ信じるようになります。主の導きに委ねて進むとき、また、主が共におられるところに患難の海は必ずや開かれることを信じましょう。

         JJ こ れ は い っ た い 何 だ ろ う JJ          

               2015.8.2     出エジプト記16:1-5,12-16(松田和夫牧師)

◇エジプトの地での奴隷状態から脱出させられたイスラエルの民は、主によって「荒れ野」へと導かれます。そこで彼らは、主の「試み」を受け、それを通して「神の民」へと訓練されていきます。「マラの苦い水」の試みを受けて後、彼らは食べ物が枯渇しモ-セに不平を述べたてます。水と食料は生きていく上での最低限の支えです。主は、彼らの嘆きを聞かれ、「天からのパン」を与えます。◇彼らは「これは一体なんだろう(マン・フ-)」と驚きと共に主の恵みを受けました。「マナ」は、彼らの荒れ野の40年を養い導いた神からの奇蹟の賜物でした。それはまた、彼らが主に従い、主に導かれるために受けた「主の試み」でもありました。◇「マナ」は、一日分だけ与えられます。6日目には2日分です。そこには、私たちが信仰に生きる上での主の戒めがあります。私たちの命が神によって日々支えられ、

また安息日を主に捧げることで、主の恵みのうちに生きるべきことが示されています。◇主イエスは「わたしは命のパンである」と言われました。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハネ48-51)と。主イエスは十字架の死と復活により、主につながる私たちに朽ちない命を約束されています。「マナ」とは主から与えられるこの霊的な命のことです。世の荒れ野を生きる者に与えられる天からの恵み(み言葉)に生かされましょう。

       JJ 平 和 を 実 現 す る 者 た ち JJ          

   平和を覚えての礼拝     2015.8.9  マタイ5:9(松田和夫牧師)

◇きょうは長崎被爆の日です。戦後70年、平和憲法のもとで続いた日本の戦後の「平和」が揺らいでいる昨今の社会情勢にあって、キリスト者として改めて御言葉に聴き、「平和を実現する者」となるべく主に招かれていることを自覚させられます。◇マタイ5:9は「山上の説教」の中で八つある祝福の中で7番目の祝福です。「平和」(「平安」とも)を実現するとは、ただ私たち人間の力と知恵にだけ頼ってなすのではありません。なぜなら、真の平和とは(国家間の平和から人間同士の平和まで)、本来、すべて「キリストの平和」であるからです。キリストこそがこの世で争いのあるところに「和解」をもたらす方であるからです。◇神はキリストおいて「世をご自分に和解させ」「和解の福音」を、わたしたちに委ねられたのです(第Ⅱコリント5:18-19)。私たちはキリストの十字架にあって罪赦されることにより、自らと和解し、他者と和解します。また、争い合う者同士の間にキリストがおられる時、初めて真の平和への道が開かれることを聖書は示しています。そこにキリスト者の希望があります。◇「神の子と呼ばれる」とは、終末の日において、神により「神の子」とされることを意味しています。そこに至るまで、主の救いに与った者であるキリスト者は平和を実現する者として、日々この主の祝福と招きに生きる者たちであります。

 

        JJ  自分の目から丸太を取り除け  JJ          

                  2015.8.23       マタイ71-6(松田和夫牧師)

◇主イエスの譬えにはユ-モラスなものがあります。「金持ちが天の国に入る」のは「ラクダが針の穴を通る」のよりも難しい(19:24)。ここでも「自分の目に丸太があるではないか」と言われています。主イエスの、弟子たちに対する福音的なおおらかさと温かさを感じさせます。主は「偽善者」になるなかれと、弟子たちに厳しく忠告されますが、厳しさの裏には主の愛がにじんでいます。◇「山上の説教」の中心にあるものは神の国の福音の宣教ですが、それは「ファリサイ派の義にまさるもの」(5:20)であることを、主は告げます。彼らは自力で律法を順守することを第一としますが、それは表面的な形式ばかりを重んじるものでした。主は、彼らのことを「偽善者」と呼ばれていたのです。◇7章では、神の国の福音を受け入れた者たちに、それを生きる時の戒めが与えられています。自分を高きに置いて「人を裁くな」と。主は宗教的な驕りを戒めておられます。キリスト者は神により罪を赦された者とはいえ、それに驕ってはならない。罪なき「全き」者とされているのではありません。「人を裁く」ことがある自分であること、それは消えないにしても、神の福音、神の恵みに与り、それによって「自分の目から丸太を」取り除いていただくことはできるのです。十字架の贖いをわが事として覚え、祈り求める者には良き力が与えられます。

        JJ わ た し は 主、あ な た の 神  JJ                       2015.8.30  出エジプト記201-6(松田和夫牧師)


◇十戒は教会では三要文(ようもん)の一つとして信仰に不可欠な文章の一つとされます(他の二つは、使徒信条と主の祈り)。教会によっては礼拝時に十戒を唱えるところもあります。本日はその第一戒と第二戒を学びます。しかし、十戒は旧約の律法の原点であるせいか、どこかなじみにくいものがあるかも知れません。◇十戒の原意は「十の言葉」です。神がイスラエルに与えられた神の契約から与えられた言葉です。ですから、そこに神の御心が表されています。◇パウロは「律法によらなければ、わたしは罪をしらなかった」と言います(ロ-マ7:7)。律法を知る時に、私たちは自分の罪を知らされ、そこから悔い改めが起こります。しかし、イエス・キリストが福音を告げられて後は、神の福音に与った者たちにして初めて律法を生きることができる者とされました。福音から律法へ、です。◇第一戒によって、私たちは主なる神以外にまことの神はいないことを知らされ、この主を神とする以外に生きる道はないことを告げられます。それは私たちの存在の根本にまで根差しています。従って、私たちを縛るのではなく、ほんとうに自由にされて生きる道であることをもそれは示しています。

そこから第二戒は、主以外のものを神としないというだけでなく、神を被造物によって表し、それを崇めることをしないことが求められています。

        JJ  あ な た の 父 母 を 敬 え  JJ          

           2015.9.6      出エジプト記2012(松田和夫牧師)


◇十戒の第五戒以下は、神への信仰からする人間どうしの正しい在り方、つまり人間の倫理の教えとなっています。「あなたの父母を敬え」と神さまから命じられて、果たして私たちはすんなりとそれが守れるでしょうか。若者はたいてい上に立つ者に対して反抗的になります。第五戒は、成人した大人に対しても誡められていると言います。年老いた両親を「敬いなさい」と。◇イスラエルの民は、主なる神との間で出エジプトの出来事を通して神の救いの契約の民とされた、そのことが彼らの人生を大きく規定していたのです。父祖たちが語りついできた救いの歴史の中におかれて彼らの今の生活がありました。主が彼らの生きるべき土地を与え、彼らを神の道に導く。それに従順に従い生きるところに神の幸いが約束されていたのです。◇父母を敬うとは、主なる神を敬い、今ある生活を主の導きによるものと感謝する、そのようなところからくる正しい服従を意味しています。そこには親にしても子にしても第一戒の戒めが求められています。神を神とするところに人の人としての道も開かれます。◇主イエスは私たちにそのような道を開いてくださるために、十字架にかかられた。キリストの愛を通して、初めて父母を敬い、父母と真に和解して生きる道へと導かれるのです。ですから「愛は律法を全うする」(ロ-マ13:10)と言われています。

       JJ  背 負 い た も う 神   JJ          

          2015.9.13       イザヤ書461-4(松田和夫牧師)


◇バビロンに捕囚されていたイスラエルの民たちを、時いたって主はペルシア王キュロスを用いて解放へと向かわせます。都バビロンはペルシアにより陥落し、彼らの偶像神・守護神であった「ベル」も「ネボ」も今では彼らの重荷としかならなかった。偶像の神は、いざとなると自ら動くことも民を救うこともできなかったのです。◇イスラエルの主なる神は「わたしはあなたたちを白髪になるまで背負っていく」と、力強くイスラエルの民に宣告します。この主のみ言葉は、主イエスの十字架によって贖われた私たちにも告げられています。キリストこそは、私たちの重荷を共に負われる方だからです。「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい」(マタイ11:28)と、主は招いておられます。◇私たちの人生が主に負われる人生であることを今朝のみ言葉が示しています。自分ですべて背負って行こうとするのではなく、命の創り主であり日々支えてくださっている主のみ力にゆだね、依り頼んで生きるところに、重荷は軽い荷とされていきます。◇老いを生きる時、この主のみ言葉は励ましとなります。「老いは主の恵み」。老年期特有の思い煩いも、「主の軛」として共に主にあってそれを受け容れて行く時に、私たちは自らを自己にも他者にも開いて生きることが許される者とされます。主にある平安を与えられるからです

        JJ す べ て の 事 に 「時」 が あ る JJ          

           2015.9.20      コヘレトの言葉31-11(松田和夫牧師)


◇「神はすべてを時宜にかなうように造り」(11)とは、神さまはこの世に活きて働かれ、ちょうどよい「頃合い」にすべての事を起こされるということです。「時にかなって美しい」(口語訳)です。人間を含めこの世界のすべてに神の力・神のご意志が表されている、それを神の摂理と言います。◇神を認めず、すべてを自分の意志と力で成し遂げようとしても結局は「空しい」と、コヘレトは悟ります。天の下に新しいものは何一つないのだと。すべては神が支配されていると。この世のすべての出来事には「すべて(神が)定められた時」(1)があり、人間はそこに神のみ業がなされていることを知ります。◇それでも、その神のみ業のすべてを見極めることは人間にはできないと。そこからコヘレトの結論は、「神を畏れ敬う」ということでした。これは、この世界と人間界とがまったく神の被造物であることを意味しています。神こそがこの世の主権者である時、神の善なるご意志を信じ、私たちは苦境にあっても希望を与えられます。この世の「空」なることをも克服されます。◇コヘレトは、神のご支配のもとで労苦をも神の賜物として生きることを得ます。しかし、私たちはそれをイエス・キリストの福音の光に照らして生きる者たちです。十字架の主の贖いを通して御霊の力を与えられ、神の摂理・愛と義を知り、救いへと導かれるからです。

      JJ われ常に主をわが前におけり  JJ          

     2015.9.27 召天者記念礼拝  詩編16:7-11(松田和夫牧師)

 

◇聖書に言う「永遠のいのち」とはどのようなものでしょうか。「信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47)これを山浦玄嗣さんはこう訳しています。「神さまを本当に頼りにしている人は、いつでも明るく元気で活き活きと暮らすことができる」(『イエスの言葉』)と。永遠の命とは、神さまとのあいだで神さまの命に生きる者が導かれる道のことです。◇詩編16篇では「わたしは常に主をわたしの前におく」()と言われています。それは、祈りと御言葉を通して常に主との交わりにあって生きることです。地上の命が自分に根拠を持つものではないこと、神の創造になるものであること、人の命が神の被造物であることを知るところに、実は、この世の朽ちる命に終わらない神の命に生かされる道があります。◇そこに生きる時に、「揺らぐ」ことのない人生を生きる、心と魂と体に喜びと平安が与えられます()。主が「右にいまし」私たちを御手のうちに生かしてくださることを確信できるからです。そこにおいては「陰府」も「墓穴」にも恐れず活かされる命を生きることができるのです。◇もちろん、それはイエス・キリストの十字架と復活によって示される命への道でもあります。「わたしは道であり、真理であり、命である」と宣言された主イエスに、私たちが己の十字架を負って従っていくところに、それは約束されているものです。

 

       JJ 主 に あ っ て 喜 び な さ い JJ          

            2015.10.4   フィリピ4:4-7(松田和夫牧師)


◇この書簡には「喜ぶ」という言葉が17回出てきます。「喜びの書簡」と呼ばれます。私たちはいつも生の喜びを感じて生きていたいと願います。しかし、現実は「いつも」というわけにはいかないようです。パウロは獄中にあっても「常に喜びなさい」と勧めます。「喜び」はキリスト者が生きる基盤にあるものだからです。◇パウロが言う「喜び」は「主にあって」の喜びです。パウロの生き方の根本には、この「主にあって」があります。

私たちも主にあって今を生きる者たちです。過去に主の恩恵を受け救われた喜び、さらには再臨の主によって救いの完成へと向かう未来への喜び、その間にあって日々を喜びのうちに生きるのです。◇確かに、この世に思い煩いは絶えません。しかし、それらは「事ごとに」神のみ前に打ち明け祈りましょう。祈り求めは感謝を前提とします。自分の求めを先立てるのではなく、主にある感謝のうちにあって悩みはすべて主に委ねましょう。祈りは神の力です。◇祈りのうちで「人知を超えた神の平安」に招き入れられ、私たちの心も思いも煩いから解き放たれ、神のみ心によって調えられます。そうして初めて真に問題解決の道が開かれ、与えられるのです。これは、自己暗示などではありません。十字架と復活の「主にあって」生きる私たちに恵まれる神の力であります。主にあって常に喜びましょう。

      JJ 讃 美 の 力、祈 り の 勝 利  JJ            

       2015.10.11   歴代誌下20:13-21(松田和夫牧師)


◇南ユダ国の王、ヨシャファトは国家の一大存亡の危機に見舞われます。モアブ人を中心とした連合軍の大軍に南から攻め込まれます。ヨシャファトは恐れ、「主を求めること」を決意し、ユダのすべての人々に断食を呼びかけ、自らは人々の中に立って主に祈ります。◇ヨシャファトの祈りは主に聴き入れられ、主は預言者ヤハジエルを通して、彼らを救うことを約束し励まします。「おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。」と、主にすべてをゆだねるように迫ります。窮地に追いやられた時、私たちの救いは主にのみ信頼し、主のみ言葉に従うところにあることを示されます。◇主によって勇気を与えられたユダの民たちは、「大声を張り上げてイスラエルの神、主」を讃美します。戦いは主にあって既に勝利へと約束されているからです。主への感謝を讃美に表したそのとき、主が働かれ、彼らは勝利へと導かれます。彼らは武器を取るまでもなく、主への讃美をもって勝利したのです。◇私たちは、主にすべてをゆだね祈るところに強くされ、主を讃美するところに力を与えられます。讃美の力です。祈りの勝利です。生きる現実はある意味で戦いです。自分の力、自分の意志や理性により頼むのではなく、まず主の御前に祈り、主の御旨を求め、み言葉にゆだねていきましょう。すべて主のなさることが最善ですから。

       JJ   ハ レ ル ヤ へ の 創 造   JJ          

                 2015.10.18   詩編102篇(日原広志兄)

 

◇『賛美~神さまへの捧げもの~』◇「賛美する」はヘブライ語でハレル。元の形はハラル。ハラルがピエル(強意)形ハレルに変化した時だけ「賛美する」という意味になります。ピエル形とは、的を定めて、しっかりと、狙いを定めて貫くことを表す形です。「賛美」になるのはこの時だけで、元の形に賛美の意味はありません。◇では元のハラルの意味は何かというと、「高慢ちき、尊大だ、偉そう、鼻持ちならない」という意味です。これがピエル形ハレルになると突然「賛美する、ほめたたえる」の意味に変わります。つまり主なる神様だけを的として狙い定めて強い想いの矢を放つ、レーザービームを貫く、かめはめ波を撃つ、そのような賛美だけをハレルというのです。◇主という的を忘れて、心ここにあらずで、3時のおやつを考えながら、自分のタラントに酔いしれながら、人と比べて落ち込みながら、他者を心で採点しながら、歌う時、それは聖書では「賛美」と言わないのです。それはハレルではなくハラルです、鼻持ちならない高慢ちき、うんざりする自己宣伝でしかないのです。◇『ドラえもん』のジャイアンは自称歌の天才ですが、ジャイアンの俺様賛歌はいつものび太たちを辟易(へきえき)とさせますね、あれと同じです。ですから賛美には、とりなしの祈りと共同性、つまり礼拝が不可欠なのです。

       JJ   わ れ (なんじ) ら を 休 ま せ ん   JJ          

         2015.10.25   マタイ11:28-30(松田和夫牧師)


◇「すべて労する者、重荷を負う者、われに来たれ。」主イエスは「すべてわが(もと)に来るように」と招きます。そして「われ汝らを休ません」と、言われます。これが、生きる重荷を負うすべてのに贈られる神からメッセ-ジであり、招きのことばであります。人の人たる者すべてがこれに応えるべきでありますが、「聞く耳のある者は聞きなさい」と主が言われるように、この招きに応じる者は世に少ないのであります。◇主は「わたしに学びなさい」と言われます。主に「学ぶ」=「まねぶ」(倣う)ところに、わたしたちは主の「弟子」とされていくのです。それは、主ご自身が持っておられる神に等しき人格「柔和と謙遜(心の低さ)」に倣うことです。主の柔和とは、父なる神のみ心からくるものです。パウロはそれを「霊の実」と言います。主の謙遜とは、主の生涯にわたる父への「十字架の死にいたるまで」(ピリピ2:8)の従順であります。わたしたちはそれに倣う者とされていきます時に主の弟子とされるのです。◇それは、「自分の十字架を背負って」主に従う道です(ルカ14:27)。十字架の勝利が約束された道でもあります。それ故、主はご自身の軛と荷をもってわたしたちのそれに替え、重荷を軽くし、「魂に安らぎ」を与えてくださいます。自分の十字架を負うとは、主の軛を共にすることでもあります。そのとき、もはや私たちの重荷は軽くされ、軛は解かれ、主にあっての自由に生きる者とされます。

        JJ   神 を 待 ち 望 め   JJ          

                 2015.11.1  詩編42篇(松田和夫牧師)


◇「涸れた谷に鹿が水を求めるように」詩編42篇は、この印象深い詩句で始まります。砂漠の風土にあって水は最も貴重な生命の糧です。それこそ「命の水」です。主イエスは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と言われました(ヨハネ7:37)。この詩人が求めているものも、救い主なる神との結びつきでした。それがゆるされない状況に置かれている詩人は、魂の深い渇きをもって「神の御顔を仰ぐ」ことを切に求めています。◇わたしたちは神の御顔を見失うことがあります。強いられてそうなることもあれば、自ら招いて神に見放されることもあります。神の御声が聴けなくなるときほど寄る辺ない思いがすることはないのです。そのようなときに人は魂の飢え渇きに捕えられ、生ける神を求めます。◇この詩人はみずからに呼びかけます。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか」と。「呻き」とは、神との間で生きるすべを失くすときに突き上げてくる思いです。ここには、魂の底から叫ぶような神への希求があります。その魂の飢え渇きこそが、神の御声を呼ぶのです。「神を待ち望め」と。それは、神の憐れみからくる慰めの声です。励ましの声です。まことに砕かれた魂のそばにこそ主は共におられるからです。◇そのような魂の渇きを、わたしたちはいつも持ちたいものです。主イエスは、十字架の上で「われ渇く」と言われ、贖いの業を遂げられたことを覚えます。

        JJ  澄 ん だ 目 と 濁 っ た 目   JJ          

              2015.11.8    マタイ6:22-23(松田和夫牧師)


◇「まなざし」という言葉があります。そのあり方は人の心の中の思いを表しています。澄んだ目とは、このまなざしが澄み切っている状態でしょう。つまり、心が純粋で濁っていない。この直前箇所で主イエスは「天に宝を積みなさい」と言われています。してみると、澄んだ目とはまっすぐに天を見上げる目のことです。そのようにして生きるとき、私たちの「全身が明るい」。全身とは、その人の人格を含めてのことです。もっと言えば、その人の人生そのものです。◇逆に、「濁った目」とは、まなざしが不純なものを含む、自分のエゴに曇らされた目のことです。そのような目で生きるとき、全身が暗くなります。人生も神に祝福されたものとなりません。「あなたの中にある光が」と主は言われています。私たちの中にある光を外に輝かす者となりたいと願います。私たちは「光の子」なのですから。◇子どものなかにある光を思います。『星の王子』には子どもの特徴的なものの見方が出てきます。ゾウを呑み込んだウワバミの絵です。

それを帽子と見るのは大人の目線です。子どもはどのようなまなざしで生きているのでしょうか。主イエスは「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(18:3)と言われました。◇「子どものように」とは、ここでは主を見上げるまっすぐなまなざしととりたい。自分のエゴに囚われた濁った目ではなく、ただ天を、十字架を仰ぐ目を持ちましょう。

       JJ  主 の み 顔 を 仰 ぎ 見 て  JJ          

           2015.11.15  ヨハネ1:43-51(福久織江神学生)

 

「メシアに出会った」(45)と言う友人フィリポの言葉に疑心暗鬼だったナタニエルはイエスに出会い、目が開かれ、イエスを神の子を告白するに至るのです。そのナタニエルに、主は語りかけます。「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます。」(51、新改訳) 神が彼に与えて下さったこと、それはイエスが神の子であることを知る霊的な目でした。そして「天が開かれる」ということは、「み言葉の門が開かれて悟りが与えられる」ことでもあり、「目から鱗のようなものが落ちて、今まで見えなかったものが見えるようになる」経験でもありました。◇イエスのみ顔を見上げ、霊的な事柄に目が開かれる時、私たちは「聖なる驚き」の中に生かされます。そしてその「聖なる驚き」は、神と向き合い生きる私たち一人ひとりを輝かせるものとなり、私たちを前進させる力となるのです。ナタニエルが、イエスに神にのみ可能な知恵と洞察を見出し、そして復活の主に出っていったように。◇神は、私たちが神との親しい交わりを持ち、顔と顔とを合わせて神を知る者として生きるように、今日も私たちを招いていらっしゃるのです。ナタニエルに会う前から彼を見つめよくご存知だったように、いつも私たちを見つめ、両手を広げ待っていて下さるのです。

 

       JJ 大 い な る 光 を 見 た JJ 

             2015.11.29   イザヤ書9章1-6節(松田和夫牧師)

 

 

◇今年も今週よりアドベントに入りました。救い主イエス・キリストが来られる、その前4週間を、ご降誕を待ち望む期間「待降節」として私たちは過ごします。福音書(マタイ、マルコ)はキリストの降誕を告げる役割を星の光や栄光の光が果たしています。ヨハネ福音書では文字通りキリストは「世の光」として来られたと記します。◇この救い主の到来(アドベント)は、すでに旧約の時代に預言者イザヤの言葉を通して、ユダヤの民に告げ知らされていました。そこでも、「大いなる光」として語られています。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見(た)」。それは、「ひとりのみどりご」の生誕として告げられます。これが「メシア(救い主)預言」です。◇けれども、この後ユダヤの民が真のメシア、イエス・キリストを迎えるのにはなお700年という忍耐の期間を要したのでした。それは神の忍耐でもありました。そこには歴史を貫いて成就されていく神の人間との間でのご計画の業があります。神の民の歴史を通して、私たちは人間が救いへと導かれるその過程を示されます。◇救い主が「闇」の中にある私たちに「光」として来られるということ。それがクリスマスです。私たちは、この「光」の到来を、闇が覆っているかのようなこの時代にあって、また、それぞれの人生の苦難の今にあって待ち望んでいるのです。「主よ、来りませ」と。

       JJ 荒れ野に水が湧き、荒れ地に川が流れる JJ 

             2015.12.6   イザヤ書35章1-10節(松田和夫牧師)

 

◇「人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」(2)とあります。クリスマスの夜も、羊飼いたちの周りを「主の栄光が照らした」とあります(ルカ2:9)。主の栄光とは主の救いのわざの素晴らしさを言います。荒れ地は生き返り川が流れる、砂漠には水が湧き出で湖となる、それは世界が一変する創造の御業です。救い主が来られる(アドベント)とは、そのように再生と復活の喜ばしい知らせが届けられることです。◇5-6節は福音書で主イエスが語られた言葉の中に引用されています(マタイ11:5ルカ7:22)。それは主イエスを通してなされた福音の業の現われでありました。目が見えない者が見えるようになる、それは福音の光が射すところには霊的な目が開かれ、神の国を見るようになることであります。耳が聞こえるようになるのも同じです。罪が赦されることで私たちは霊的な救いにあずかり、生きる新たな力を与えられます。「死者は生き返る」とは、そのようなことを指しています。◇「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)主イエスは罪人である私たちの罪を赦し、神の御許に立ち返って生きる道を示されました。「主に贖われた人々」は主の御許に帰り「喜びと楽しみが」迎え、「嘆きと悲しみは逃げ去る」とイザヤは預言します(10)。主の到来とは、そのような意味での喜びの到来です。それは、主ご自身が「先立って歩まれ」る(8)道にそなえられてあるものです。

       JJ (あした) の 光、上 よ り 臨 み  JJ 

             2015.12.13      ルカ:26780節(松田和夫牧師)

 

◇イエス・キリストがこの世に来られるときに、その道を備えるための使命を担った人物がいました。バプテスマのヨハネです。その父ザカリアは、聖霊に満たされ主を讃美し、我が子ヨハネが、来たるべき「いと高き方」の「道を整える」預言者であることを示します。救い主は「あけぼの光」とともに高い所から訪れ、「暗闇と死の蔭に坐している者たち」を照らす、と預言します。ここでの福音書記者ルカの表現は目覚ましいものです。真に神の霊感に促された言葉です。◇「救いの角」である力ある救い主は、イスラエルの民を「敵の手から救われた」方であり、その救いの業は主が歴史の中で誓われた約束の成就でした。その主は、キリスト・イエスにおいて私たちにも臨み、私たちを暗闇や死の蔭に覆われた現実から救い出し、「平和(平安)の道」に導いてくださいます。クリスマスは、そのような主が来られたことを喜び祝う日です。◇ザカリアは、その出来事を「主の憐れみ」によると繰り返し歌っています。「主の憐れみ」とは、上から目線で相手に同情を寄せることではありません。主イエスは一人息子を失った「やもめの女」に、腸(はらわた)が断ち切られるほどの悲しみを共にされ、息子を生き返らせ、女を立ち上がらせるのでした。(ルカ7:1)それが主の愛と憐れみです。主なる神は、この世の人間一人も滅びることがないようにと、独り子イエスをこの世に贈られました。この恵みに感謝。

      JJ 主 の 涙 の ゆ え に JJ 

                  2015.12.27     マタイ:54節(松田和夫牧師)

 

 

◇2015年が終わります。この一年を回顧し、人それぞれにさまざまな思いのうちに年を越していくことですが、今年も世界は多難であったとの感がします。教会においてもまた然り。いつもの顔を見られない寂しさをかこつ歳末主日を迎えています。◇この時期、巷で響くのは第九の「喜びの歌」です。ベ--ベンの第九は「苦悩を突き抜けて歓喜に到れ」という思想を主題にしていると言われます。彼は己れに課せられた耳疾という運命に強靭なまでの精神力で立ち向かい、精神性の深い魂の音楽を創造しました。◇キリスト者が担わされる苦難・苦悩とは、単に人生の偶然によるものではありません。信仰がそこに入って来ることにより、そこには試練としての意味や、恵みとしての意義さえ与えられます。意味のない苦難は絶望であると、あの絶滅収容所を生き通した精神科医師フランクルは言います(『夜と霧』)。◇私たちが生きる身近な所でも大なり小なり苦難があります。癒されない悲しみがあります。主イエスは「悲しむ人々は幸いである」と神の国の福音を告げました。それは、悲しみの極みたる死別の悲しみさえもが「慰められるであろう」との福音の約束です。この世の何によっても慰められない呻くような悲しみさえ、復活の主につながることを信じるところに、慰めと励ましは与えられると主は約束されているのです。

       JJ  流れのほとりに植えられた木 JJ 

                 2016,1,3      詩編:第一篇(松田和夫牧師)

 

◇詩編ほど歴史上の信仰の偉大な先人たちに愛されたものはありません。

 

アッシジの聖フランシスコは、石の上を歩く時にさえ詩編の一節(40:2)を口ずさんで歩いたと言います。近代のルタ-はまた詩編を特愛し、大きな詩編の講解をなしています。信仰者のだれもが愛唱の詩編があることと思います。詩編はまた小さな福音書とも言われます。福音の光に照らしてこれを読むところに、神の祝福を受けるのであります。◇第一篇は、人生の二つの道を明確に示し、「神に従う人」=神の祝福に与り生きる者のことを「流れのほとりに植えられた木」に譬えています。彼は「主の教えを愛し」それを「昼も夜も口ずさむ」と。「口ずさむ」とは、み言葉を咀嚼しそれを黙想することです。それは、み言葉に養われる人生です。それに対し、「神に逆らう者」は「風に吹き飛ばされるもみ殻」、命の根がなく、その道は「滅びに至る」と言われています。◇「流れのほとりの木」は神の命の水を流れに汲み取り、それによって生かされる命です。そこに実は結び、葉もしおれることのない、すべてを益とされる神の祝福があります。主イエスは「まことのぶどうの木」でした。わたしたちは「その枝」です。主にとどまりつながる時、わたしたちは豊かな実を結ぶ者となります。新しい年の歩みが始まりました。日々み言葉を口ずさみ、黙想しつつ、御霊に満たされて、キリストの十字架と復活に贖われた恵みに生きましょう。

        JJ  神 に よ っ て 流 さ れ る  JJ 

               2016.1.10   イザヤ書43:1-4(松田和夫牧師)

 

 

◇近代の個人主義の思想からすると、自分という存在がまず絶対的なものとしてあります。漱石は「自己本位」ということを一時期主張しました。しかし、それはしだいに反省を強いられていったのも事実であります。聖書は「神本位」です。人や世間に流されずとも「神によって流される」ことは、むしろこれを勧めていると言ってもいいのです。◇たしかに、人の言うことにばかり左右されているのは主体性のないことです。自分は自分だというので、人は自分を枉げまいとします。けれども、聖書の神は「あなたを造った」神です。ですから「あなたはわたしのもの」と、主なる神は宣言するのです。わたしたちは、根本的には皆「主のもの」であります。パウロも言います。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ロマ書14:8)と。◇そのような神にとって、わたしたちは皆、神の御前に「価高く、貴く」ある存在です。そこからして「恐れるな、わたしはあなたを贖う」、「あなたの名を呼ぶ」との神のことばがくるのです。◇その時、たとえ「火の中」「水の中」をくぐろうとも、痛手を負うことがない。なぜなら、主なる神が共におられるからです。自分の自力だけに頼らず、むしろ神のみ手に委ねていく、「神によって流される」ときに、わたしたちは真に自分の道をゆく者とされます。ですから、「あなたのなすべきことを主にゆだねよ」(箴言16:3)主のなさることが最善だからです。

       JJ  キリストの霊において一つ   JJ 

                2016.1.17     第一コリント12:1226(松田和夫牧師)

 

 

◇使徒パウロはすぐれた言葉の表現者でもありました。イエスの言葉にもユ-モアがありますが、パウロの比喩的表現にも説得力があります。ここでは、教会はキリストの「体」であり、教会員はそれを構成するそれぞれの「部分」であることが言われています。そのあり方はひとことで言えば、多様性を持ちながら一つとされている、ということです。一つとするのは、「キリストの霊」によるのだとパウロは言わんとします。◇教会=エクレシアとは、神によって呼び集められた者の群れのことです。神が主体です。召し出されるのに何の条件もありません。ただ、主に選ばれた、そしてバプテスマされた。そこにキリストの霊において一つとされている根拠があります。◇コリントの教会は実にさまざまな人々によって成り立ち、さまざまの問題も抱えた群れでした。異邦人キリスト者の存在、福音理解における曲解、分派騒動、等々。パウロは、キリストよる群れがどのようなものであるかを、体のあり方の比喩で説明しています。人間の体は一部分が痛むと、他の箇所にも影響を与えます。言い換えれば、それぞれが微妙に相互依存の関係で成り立っているのです。◇そのように、教会の群れもお互いとの間で「共に」の関係においてあります。弱さも痛みも喜びも、共に分かち合います。しかし、「共に」が容易でないことを私たちは知っています。キリストの霊において一つとされる時に、初めてそれは可能とされます。

       JJ  語られたならばそのとき成る  JJ 

            2016.1.24          ヨハネ4:46-54(松田和夫牧師)

◇ヨハネのこの箇所の記事は、マタイにもルカにもほぼ同様な内容のものがあります。そこでは「役人」は「百人隊長」なっています。イエスは百人隊長の

稀に見る信仰を見て驚き・感心し、奇跡の業をなさっています。その時も、イエスは多くを語りません。ルカでは一言もないくらいです。ヨハネのこの箇所では「帰りなさい。あなたの息子は生きる」のひと言です。そのとき、死に瀕していた息子は癒され、家族こぞって信仰へと起こされています。神の言葉は、語られたそのときに成就するのです。◇主は「しるし」をほしがる人々に警告しています。奇跡の業によって信じる者となるのではなく、見ずして信じる信仰を、主はこの役人に認め、「帰りなさい(行きなさい)」と命じます。主の言葉を受け容れ、「信じて帰る」ときに、この奇跡の出来事は起こっています。◇この役人は、主に救いを求めるのに、自分の何ものにも頼ることなく、ただ、主にのみ信頼し、神の言葉を真実として受け容れ、すべてを明け渡しています。そこに信仰の姿があります。生ける神の命のことばは、人の内に働き、聖霊が働くところに、神への信仰を起こします。◇ヨハネ20章31節には、この書の目的がこう書かれています。「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と。神の子イエスの言葉に信頼し、生ける神のみことばに生かされる者となりましょう。 

        JJ 神 の 賜 物 の 管 理 者 と し て JJ 

                   2016.1.31     ルカ161-8(松田和夫牧師)

 

 

◇2月に入ると、たいていの教会で次年度の「教会での奉仕・献金」の約束といったことを決めることとなります。このような教会でのわざを、スチュワ-ドシップと呼びます。スチュワ-ドとは「管理者」のことです。その働きをスチュワ-ドシップと呼んでいます。私たちは神さまからすべてのものを与えられて生きています。それが恵みとしての賜物です。その賜物をもって互いに仕え合う、それが教会の業となります。◇ここで「不正な管理人」は、主人(神)から託されている財産を自分の都合のために使い、自分の保身を「抜け目なく」図った、その賢さを主人は褒めます。ここで主はその不正を褒めたのではなく、「光の子」が神のために忠実に仕え、尽くすことを奨めています。◇教会の中でのさまざまな奉仕のわざ、献金、それらはすべて神さまからいただいている恵みに対する、感謝をもってする応答のわざです。私たちは「さまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕え」(第一ペトロ4:10)るべく、主に招かれている者たちです。奉仕や献金と言うと、ともすれば自分の信仰が試されるみたいで、気持ちは引いてしまいがちになります。けれども、主イエス・キリストは、どのようなときにも私たちの主であります。キリストこそが神のスチュワ-ドであられたことに思いを致したいのです。キリストの愛に導かれ、それを証しする者たちとして、からだも時間も富も用いて、「神の同労者」として神に仕え、ささげるときに、より深く神の恵みを知る者とされていきます。

        JJ   悪 霊 と 病 の い や し   JJ 

 

                   2016.2.7 マルコ129-34(松田和夫牧師)

 

◇主イエスが、「神の国」の福音宣教の初めになさったのは悪霊の追い出しでした。神の国は、神の聖なる霊による支配になるものですから、この世の悪い霊は「叱りつけ」られ、退散させられます。悪い霊は病にもおよびます。主はシモンのしゅうとめの熱を叱りつけられました。その上で「御手」をもって「起こして」くださった。そこに主の愛を私たちは見ます。それは主イエスの怒りと憐れみとして私たちに臨みます。共観福音書には実におびただしい数の人々が主イエスによっていやされています。すべてが奇跡的に治ったと解釈しない人もいますが、「いやされた」とは「救われた」ことと言ってもいいでありましょう。どうにもできない病の苦しみの中にある者を主イエス以外のだれが救ってくれるでしょうか。人の命の限界を知るときに、私たちは真に神の力と慰めを必要とします。私たちの苦しみの底には、神にそむく罪がありますが、神の子イエスはそれを十字架の死をもって取り除き、復活の力によって新たな命へと導いてくださった方であります。ここに神の愛があります。この神の愛を受け入れ、そこにゆだねて生きるところに私たちの「ただ一つの慰め(励まし)」があります。病の中にある人の痛みや苦しみをそのままに知ることは、私たちにはできませんが、共に主につながるところで「共苦」は許されるのです。

         JJ  十 字 架 の 主 に 従 う の 道  JJ 

                 2016.2.14  マタイ1621-28(松田和夫牧師)

 

◇今年のイ-スタ-は327日です。その40日前の期間(日曜日を除く)を教会暦ではレントといいます。この期間は、主の十字架への道行きに思いを致し、厳粛な悔い改めと克己精進を求められて過ごす期間です。主が十字架へと向かわれた、そのことの意義を私たちは深く示されたいのです。イエス・キリストの受難、それが最初に告げられた時に、ペトロが主をいさめているのは象徴的な出来事でした。「あなたは・・神のことを思わず、人間のことを思っている」と、主はペトロを叱責します。その言葉は私たちにも語られています。私たちも「神のこと」よりも「自分のこと」を優先することが多いからです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と、主は言われます。私たちは主に従う者たちでありながら、自分を捨てること、自分の十字架を背負うことの至難なことを、日々知らされます。けれども、そのような私たちであるが故に、主の十字架の死と復活のみ業が神の御心として与えられていることは、まことに神の恵みであります。主の十字架での死、それは私たちがキリストと共に「旧い(=罪ある)自分に死ぬ」ためでした。そして、復活に与るところにキリストと共に新たな命に生かされるのです(ロマ書6:7)。このようにして私たちは主に従う者とされます。

 

 

        JJ  弟 子 の 足 を 洗 う  JJ 

 

               2016.2.21           ヨハネ131-11(松田和夫牧師)

 

◇受難週の木曜日を「洗足木曜日」と教会暦では言います。ヨハネ書のこの箇所で、主が弟子たちの足を洗ったことにちなんでいます。救い主である主イエスが弟子たちの足を洗う、それは極めて象徴的な行為でした。どうして主がそのようなことをされたのか。弟子たちには分からなかったのです。「汝ら、後に知るべし」(文語訳)と、主は言われました。この御言葉は私たちに神がどのようなお方であるかを、神の愛の深さ、知り難さ、そうしたことを教えます。この箇所では、弟子たちにも同じように「互いに仕え合い」「互いに愛し合う」ようにとの主の御心でした。そこに、主の謙遜が示されています。しかしそれだけでなく、主が弟子たち更には私たちの足をも洗ってくださることを覚えます。私たちの足はいつも「汚れ(よごれ)ている」、つまり「汚れ(けがれ)ている」からです。主が洗ってくださらなければ、主によって罪赦されなければ、神の御心が分からない私たちなのです。そこから「互いに愛し合いなさい」とは「互いに赦し合いなさい」ということでもあります。これが「新しい掟」として、主イエスが地上の最期に臨んで言い置かれた御言葉でした。主の十字架の道行きに主の謙遜を学び、主にあって互いに罪赦し合う、そこに信仰者どうしの真の交わりも可能とされていきます。互いに足を洗い合いましょう。

     JJ  主は わたしの光、わたしの救い  JJ 

                   2016.2.28     詩編27篇(松田和夫牧師)

 

◇詩編にはダビデ詩編と呼ばれる一群の詩編があります。この27篇もそうです。ダビデとは「愛される者」という意味です。ダビデの生涯は神の恵みに彩られています。この詩の冒頭で「主はわたしの光」であると宣言しています。創世記の冒頭にも「光あれ」と神のみ声があります。主イエスがこの世に来られた時も「暗闇に住む民は大きな光を見」(マタイ4:16)たのでした。この世の人工の光は、神の御心を照らすことができません。

人間が「主の光」を受け入れる時に初めて神のみ心を示され、それに寄り頼むことにより、人はこの世の不安や恐れから解放されるのです。「わたしは誰を恐れよう」と。そのような「光」である「主の家」に「宿る」ことをダビデはたったひとつの願いとします。それは、主との霊的な交わりと言っていいものです。この世の生きるどのような場所であっても、この主との交わりにある時に、わたしたちは主により救われ、守られます。しかし、時にわたしたちは主を見失うことがあります。主は御顔を隠されたと。たとえそのような時があっても、「あなたはわたしの助け」と信じ求めていくことです。「主は必ず、わたしを引き寄せてくださ」るからです。ですから、ダビデは自らに神のみ声を聞きます。「主を待ち望め」と。やがて、「義の太陽(キリスト)が昇る」(マラキ書)のを見るからです。

 

 

      JJ 悔 い 改 め な け れ ば 滅 び る JJ 

                     2016.3.6 ルカ13:1-5(松田和夫牧師)

 

◇東日本大震災から5年目を迎えます。安保法案、東京五輪、その陰で震災・原発によってもたらされた多くの無辜の人々の痛みが忘れられてはならないし、生活の復旧と生きる望みへの心の回復への援助が続けられねばならないことを覚えます。日本の為政者のみならず、すべての人に求められているのは、主が言われる意味での「悔い改め」なのではないでしょうか。「悔い改める」それは、ただ懺悔し、改心するのではありません。もちろん、この世の不正や欺瞞や誤魔化しは、正しく制裁されねばならないことです。主が言われた「悔い改め」とはメタノイアです、それは生きる根本や命そのもののあり方、その基盤・支えとするところを、自分から神へと全面的に転換することです。「主に向き直れ」「主に立ち帰れ」と。しかしそれは、自分が努力精進するとか、修行の果てにできることではありません。ただ、主イエスに自分を明け渡し神の国の福音を受け入れる、十字架の主に自分をつけて旧い自分に死に、主の恵みに心底から浸されることでしょう。自分を自分のものと信じるところには「滅び」しかないのだと、主は言われます。「わたしのために命を失う者はそれを得る」(マタイ16:25と。本来の命の主体たる神を忘れて暴走する人間の世界がどれほどの混迷と危機を抱えているかを覚えます。「主に立ち帰れ」、被爆と地震の国・日本が進むべき道がそこにあると信じます。

 

 

     JJ 神 の 御 心 に 適 う 苦 し み JJ 

            2016.3.13     ペトロの手紙一 218-25(松田和夫牧師)

 

◇この世には「不当な苦しみ」に耐えていかざるを得ないということがあります。自分に責任のないことであるのに責められる、苦しめられる。身体的なハンディや、仕事の上での差別的な待遇や。ペトロはここでキリスト者である召使いたちに対して「無慈悲な主人」に対しても「畏れ敬って従いなさい」と勧めています。それは「神の御心に適う」ことであり、「神の僕として」の生き方なのだと言うのです。私たちは躓きそうになります。ペトロは言います。自分にとって「不当」と思われる苦しみであっても「神がそうお望みだとわきまえるなら」と。そのように受け止めるかどうか、つまり信仰をもって受け入れるかどうかで私たちの受ける苦しみは変質するのです。ここには「苦難の神学」ともいうべきものがあります。それは主が差し出す「軛(くびき)」として主と共にその「不当な苦しみ」を担うときには「重荷」は軽くされるということでもあります。苦難に耐え忍ぶことのできる道がそこにあります。苦難を苦難としない道です。そのような不当な苦しみを負う者たちのためにキリストはその生涯において同じような苦しみを受け、十字架にかかることによって最終的に私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったのだと、ペトロは言います。主の十字架へと至る道とは私たちの苦しみをも恵みとする道であります。

    JJ  十 字 架 の 恵 み  JJ 

             2016.3.20  ロ-マの信徒への手紙 64-11(松田和夫牧師)

 

 

◇十字架はキリスト教のシンボルです。イエスが十字架の上で最後を遂げられたということ、さらに、その死の後に甦られたこと、そこからキリスト教は出発しているからです。十字架上での死は確かに肉の目で見れば無残な死であり、人の知恵からすれば、謎であり、愚か(第一コリント123であるかもしれません。けれども、そこには深い神の奥義があったことを聖書は語っています。使徒パウロは「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」(第一コリント2:1と言います。◇弟子たちははじめ「神の子、メシア」が十字架にかけられたことにつまずきます。しかし、復活された主と出会うことによって、そこから神の啓示を受け、十字架の意義を知らされます。十字架は、神から離れて生きる人間たちの罪を暴き、神の怒り・裁きとの和解の業であったことを示され、神の恵みをそこから受けることとなるのです。◇罪に縛られた「古い自分」が「キリストと共に十字架につけられ」、新しい命に私たちが甦り、生き直すために、神が起こされた十字架の出来事であることを、私たちもパウロと共に知る者たちとなります。◇十字架を仰ぎ見るとき、神の赦しと愛を与えられ、自分を縛る罪から解かれ、「神の恵み」の下で生きることが許されるのです。生きることの悩み、苦しみ、思い煩い、を主は共に担ってくださるからです。

      JJ  キ リ ス ト の 愛 に 立 つ  JJ 

                     2016.4.3  エフェソ3:14-21(松田和夫牧師)

 

 

2016年度の教会主題が「キリストの愛に立つ」となっています。キリスト教の中心には神の愛があります。「もし愛がなければ、いっさいは無益である」(第一コリント13:3)と。しかも、聖書に言う愛はアガペの愛です。それは神から出る愛です。それはまた、キリストの十字架において示された愛でもあります。私たちはこの愛によって新しくされた命に生きる者たちです。この聖書箇所にはパウロの執り成しの祈りが記されています。神とキリストと聖霊とが、私たちの「内なる人」に働いて、私たちがキリストの愛・神の愛に「根ざし」「しっかりと立つ者」となるようにとの祈りです。私たちが、神の聖霊なる力によって「内なる人」を強められ、また、信仰によって「心の内にキリストを住まわせ」、その上でキリストの愛に立って生きるようにと、パウロは「聖なる者たち」=キリスト者たる私たちのために祈っています。私たちの立つべき場所はキリストの愛以外にないことを改めて心に刻みたいと願います。そこおいて神の「みちあふれる豊かさ」にあずかり、満たされていきたいのです。それは個人の信仰だけでなく、教会生活においても言えることです。これから一年、それぞれが「キリストの愛」という原点に立ち、そこに根ざして、福音伝道の業に励んでまいりたいと願います。う。

      JJ 神 の 愛 と わ た し た ち の 愛  JJ 

           2016.4.10          第一ヨハネ4:16-21(松田和夫牧師)

 

 

主イエスは神を愛し隣り人を自分のように愛しなさいにと言われました。それは聖書がいうもっとも大切な愛の訓えです。一方でまた「神は愛」(16)あり「わたしたちが神を愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」とあります(19)。わたしたちが神を愛するには、神がわたしたちを愛しておられることを身をもって知る必要があります。神の愛をどのようにわたしたちは知るのでしょうか。それは何よりも神の独り子であるイエス・キリストが「わたしたちの罪を償うために」つまり「罪を赦すために」十字架にかかられたこと、そこにわたしたちに対する神の愛があったことを知ることによってです(10)。わたしたちが神を愛するのは、神によるわたしたちの罪の赦しが根本にあることを知ることによるのです。ただ知識として知るのでなく生きる命の土台にそれが置かれてあることです。「目に見えない神」をどのように愛するのでしょうか。自分を主にゆだねて祈る、すべてを主にあって生きる、それも主を愛すること。しかし神への愛は「目に見える兄弟」(20)を愛する行いのうちに表れると言われています。その愛はまた、互いに主にあって罪赦された者同士としての愛の振る舞いでもあります。教会でのわたしたちの交わりの中心にはこの神による罪の赦しがあるのです。い。

      JJ  信じることなければ立たず  JJ 

               2016.4.17      イザヤ書7:1-9(松田和夫牧師)

 

中国古代の『論語』顔淵篇に「信なくば立たず」とあります。民に信頼されるところがないと国は立たないとの意味です。イザヤ7:9の「確かにされない」とは「立つことはできない」とも(口語訳)。人は何によって「立つ」のかです。自分で立っているように思っていても、いざとなると、アハズのように目の前の事態に右往左往し事態を混乱させるばかりだったりします。イザヤが主なる神から受けて告げ知らせた言葉は「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」というものでした。そうは言われても、私たちは落ち着いていられないものです。けれども、予測できない事態が降りかかってきた時に私たちのなすべきことは、まず「神の御前に静まること」です。まことに信を置くに値する確固たるものは主なる神であるからです。主はイスラエルの民をご自分の民としてエジプトの地から救い出したもうた神でした。私たちはイエス・キリストにより罪赦され救われた者たちです。

 

神の御子キリストによる救いの事実の上に救いの確固たる根拠があります。そこに信を置くときに、私たちは真に「立つ」ことができるのです。このイザヤの言葉は危機的な状況に置かれた時、信仰の試練にあう時に、いつも私たちに語られる、活きて働かれる主なる神からの励ましの言葉であります。

      JJ 心 安 か れ、我 な り、(おそ) る な JJ 

                  2016.4.24     マルコ6:45-52(松田和夫牧師)

 

 

熊本地震により被災され、厳しい避難生活を強いられている被災地の方たちのことを覚えます。救援、復旧が一日も早く進み、平穏な日々が戻ることを祈ります。わたしたちが祈りと具体的な支援をもって寄り添っていくことができますように。余震が長く続く今回の地震、被災民の多くの方が車の中で不安な夜を過ごされていることに心が痛みます。市民生活の基盤にあるインフラ整備の重要さを思わされるととともに、わたしたちは何より「心の平安」をまず求めるものであることをも示されています。わたしたちが生きている足場が揺らぐときほど不安に襲われることはありません。そこでわたしたちに真に必要なのは心・魂の平安というものです。それは単なる精神力ではなく、肉体と魂を丸ごと支えておられる「いのちの足場・源」である神の慰めと励ましからくるものです。この世を生きる時にぶつかる荒波、逆風にあっても、主がそれをいつも「見て」おられて、湖(海)の上であろうとかけつけてくださる。心が動揺するときにこそ主が共にいてくださることを覚え、逆風をも鎮めてくださる主なる神の力にゆだねたいのです。「わたしだ」と主イエスは言われます。それは、なにが起こってもわたしたちが主の御手のうちにあることを力強く宣言しています。それ故に「心安かれ」と。

     JJ 祈 り の ち か ら  JJ 

                                   2016.5.1      マタイ6:5-8(松田和夫牧師)

 

祈りはキリスト者の特権と言われます。聖書の神は物言わぬ偶像の神ではないので、わたしたちと対話してくださる、願いを聴いてくださる人格神です。ですから祈りは神さまとの対話と言われたりします。「苦難のときわたしを呼べ」と主なる神は語りかけてくださる。わたしたちは神に祈ることが許されているのです。◇旧約のユダヤの祈りは「シェマ-、イスラエル」と、まず神さまが「聴け、イスラエルよ」(申命記)と語りかけ、人間は神さまの御声に聴き従う、それが本来の祈りの姿です。それは福音書においても同じです。主イエスの祈りは天の父の御心に聴く祈りでした。神さまに願いや訴えを聞いてもらうのも祈りですが、それは神さまの応答を期待してのことです。なぜなら、わたしたちは主の民であるからです。自分がどうしていいかわからないから神さまの言葉を求めるのです。◇生活の中で生きるとき、知らない間に神さまの心から離れ、自分の罪の力に惑わされてしまう。そのような時とは自分との戦いの時です。ひとり「奥まった自分の部屋」(心の奥)で神さまと対し神さまのみ声に聴くこと=祈りが最強の武器となるのです。相手とことばで戦わない。神さまの御心を求め、み言葉を求めて、語りかけられる神さまにひたすら祈りの中で耳を傾ける。その時に神のみ手が動くのです。祈りの中で自分が変えられ状況が変わる、神さまの力が働くのです。

     JJ  母とはだれか、兄弟とはだれか  JJ 

                                    2016.5.8    マタイ124650(松田和夫牧師)

 

 

「母の日」礼拝は19世紀半ば米国のプロテスタントの教派の一つメソジスト教会の女性教会員の提唱により始まったものです。後に日本のプロテスタントの教会でも広まり、世俗においてもこの日にカ-ネ-ションを母親に贈る慣わしとなりました。人はだれしも母親の胎を痛めてこの世に命を授かります、その意味で母なる存在は命の大きい絆です。古代の日本社会は母系制社会であったと言います。ところで、聖書の十戒には「汝の父母を敬え」とありますが、それは決して親を絶対とするものではなく、親を通して示される主なる神を崇めるべきことを戒めていているのです。人の命はあくまでも創造主なる神に由来するものであり、親は神に託された命として子の命を神の御心に適うよう育む義務を有しているのです。聖書は血のつながりからなる肉親間の関係を絶対としないのです。「わたしの天の父の御心を行う者」同士の関係において生きる者は<だれであれ肉の関係を超えて神の愛のもとに生きる「神の家族」であるのです。肉のままの私たちは罪に汚れていることを知るとき、この主の御言葉はまことに重い意味を持ちます。そこには十字架のキリストが立っておられるのです。罪の贖い・赦し無くしては、人は神の愛に生きることができない、そのことを主は語られたのです。母親の愛も神の愛によって清められるときに初めてまことのものとなるのです。

     JJ  こ こ に 水 が あ り ま す JJ 

 

                      2016.5.15           使徒言行録826-28,3440(松田和夫牧師)

「ペンテコステ」とは五旬祭とも言います。これはキリストが復活されたイ-スタ-の日から50日目に弟子たちの上に聖霊を降すとの約束が成就した日のことです。聖霊降臨日とも。これによって師無きあと恐怖と絶望の底にあった使徒たちは勇気と大胆さと喜びに満たされ、キリストのみ国建設、福音伝道へと向かわされ、教会が建てあげられていく、その意味で教会の誕生日です。使徒や弟子たちの福音伝道の記録が「使徒言行録」です。ここでフィリポは、主の霊(聖霊)によって遣わされ、エチオピアの高官である一人の宦官に福音を説き救いへと導き、バプテスマを施します。宦官は言います。「ここに水があります」バプテスマを受けるのに「何か妨げがあるでしょうか」と。聖霊による促しは、実にまっすぐで率直、なんのためらいもなく宦官はバプテスマを受けます。救いに入れられることは、あれこれと人の業、人の知による妨げをすべて排します。宦官とかいった地位は関係ない、異邦人であろうとなかろうと福音を信じ受け入れた者はすぐその場で救われます。バプテスマはそれを形で象徴したものです。本日の礼拝で一人のバプテスマが与えられます。ここに至るまで神さまの導きがあったことを覚えます。救われる方は皆それぞれに神さまとの出会いを体験します。神さまはその人その人にふさわしい時をもって一人のフィリポを遣わされるのです。

      JJ 主 イ エ ス を 信 じ な さ い JJ 

 

                           2016.5.22             使徒言行録162534(松田和夫牧師)

この牢の看守は「救われるためにはどうすべきでしょうか」と、問います。大地震の中で起こされたこの救いの出来事は、わたしたちに強烈な印象を与えます。パウロとシラスの祈りや賛美が与って力あったことでしょうが、彼の心の内にも大きな回心へと促される神の導きがあったことは確かなことです。地震は「牢の土台」を「揺れ動」かすと同時に、彼の人生のあり方をも大きく揺り動かしたのです。人は、いつ、どこで、人生の転機に導かれないとも限りません。そこでは、生きることの根本的な「土台」が変えられる出来事が起こるのです。「救いの出来事」とは、自分中心の生き方から神中心の生き方へと回心させられることです。あくまでも自分に、この世的な価値に信頼を置いた生き方から「主イエスを信じ」て生きる方向へと方向転換すること。「主イエスを信じなさい」と。これは救いへと導くときの唯一の御言葉です。人が救われる道はここにしかないということです。主イエス以外のものを信じようとする(信頼を置こうとする)のがわたしたちです。しかし、すべて生きることの思い煩いや不安と恐れはそこから来ます。主がられたのは「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)とあります。主を信じるときに、何ものにも揺らぐことのない神の平安が与えられます。だから「主イエスを信じなさい」です。

      JJ 神 は わ れ ら が 避 け ど こ ろ JJ 

 

                            2016.5.29                   詩編46篇(松田和夫牧師)

詩編46篇は宗教改革者マルチン・ルタ-が愛唱した詩編にとして有名です。ルタ-はこれをもとに讃美歌267番「神はわがやぐら」を作詞作曲しています。ルタ-は礼拝音楽を改革したことでも知られています。それまではラテン語聖歌であったのをドイツ語のコラ-ルとして会衆が歌えるものとしていきました。この詩は人がどんな苦しみの中にあっても神の力は「避けどころ」であり、究極の「近き助け」であることを力強く告白しています。なぜ、神はそれほどにわたしたちの助けなのか。神は万物の創造主であり、「わたしたちと共におられる」方であるからです。旧約の神も何度も「あなたと共にいる」と、イスラエルの民を励ます神でした。それは新約のイエス・キリストもそうです。主イエスは十字架にかかり、死から甦らされ、聖霊をわたしたちに与えられた、この主を信じる者は復活の主の御霊を内なる宮に宿す者とされるからです。キリストを信じる者は主がどんな時にも共におられるところにどんな苦難をも耐えられる神の力を与えられます。主イエスはその十字架によってわたしたちから罪と死と陰府を取り除かれた方です。わたしたちが最も恐れる死を目前にする時にすら主は共にいてくださる、わたしたちはそのことを信じることで「死の陰の谷」を行くときも災いを恐れない者とされるのです。どんな時にも主イエスだけを見つめていきましょう。

     JJ  神 の 前 に 豊 か に な る  JJ 

                           2016.6.5            ルカ12:13-21(松田和夫牧師)

この世でお金ほど怖いものもありません。漱石は人を変えるものに二つあると言います。ひとつは恋、もう一つがお金であると。金銭への欲ほど人を罪に誘うものもないのです。この世の社会的な事件のほとんどが金にかかわって起こります。つい最近のパナマ文書にしてもそうでしょう。主イエスは人間の貪欲の罪について警告します。それに執着していては神の前に豊かにされないと。この金持ちの「愚かさ」は、彼の飽くなき金銭欲、物欲から神さまのことをまったく思わないところにあります。この世のすべての存在が神の所有物であること、人間が生きる時間・命そのものも神のみ手の内にあることを彼は知らないのです。人間の前に豊かになることは、努力しだいでできることでしょう。経済的な利益を上げる、社会的な地位や名誉や、仕事で業績を上げる、そうしたことは目に見えて分かりやすいことです。しかし、神さまの前に豊かになるのはそうではない、それは目に見えないことですし、自分の欲望を満たすといったこととはかかわり無いことがらです。

 

私たちは神につながり、神の良きもの、神の豊かさに与る者とされたいのです。神の豊かさを知る者こそは真に豊かな者であります。自分にへりくだり自分の貧しさを知る者こそ神の国に近い者、神の豊かさ、朽ちることのない命に与る恵みに生きる者であります。十字架の主の豊かさに与りましょう。

      JJ  こ の 戦 い は 主 の も の だ  JJ 

                  2016.6.12           サムエル記上17:41-47(松田和夫牧師)

ダビデとゴリアトの戦い、それはわたしたちにさまざまなことを教えています。まずこれは「主の戦い」であったための勝利でした。ダビデが武器としたものは石つぶてと石投げ紐のみ。しかし、それは羊飼いダビデにとっては最良の武器でした。そして、それより何よりダビデの勝利は、「万軍の主なる神さまの御名(神さまそのもの力)」によるものでした。◇わたしたちのこの世での戦いも、そうでありたいと願います。わたしたちは自分の真の力         

がどこにあるかを間違います。自分をゴリアテのように武装使用としないでしょうか。◇けれども、真の戦いの武器は、何よりもわたしたちと共におられる主なる神への信頼にあります。そこに立つときに御言葉という武器(石つぶて)を与えられ、信仰の勝利へと導かれるのです。◇ダビデには生ける主なる神への絶対的な信頼がありました。ですから「この戦いは主のものだ」と言えたのです。まことの主の力を信仰生活の中で味わいつつ生きたいと願います。   

 

 

     JJ  愛  は  忍     い  JJ 

                  2016.6.19        第一コリント13:1-7(松田和夫牧師)

◇キリスト教は愛の宗教と言われます。会堂正面にある額には「神は愛なり」とあります。神の愛はアガペの愛です。ふつうに私たち人間にある愛と呼ぶものとは違うことを聖書は教えています。私たちの愛は相手を好きであったり、自分のものとしようとしたり、自分の思いが中心となります。けれども、神の愛はイエス・キリストにおいて示された愛、それは自分よりも他者を先にする愛です。◇パウロはここで、その愛の具体的なあり方をいくつかの言い方で示しています。それらはすべて自己中心の愛とは逆のあり方であるのに気がつきます。4節以下は「愛」の代わりに「私」を入れてみると、逆のものにひっくり返るのではないでしょうか。それほど私たちのあり方は、神の愛のあり方から遠いことを知らされます。◇「愛は忍耐強い」とあります。これは「寛容である」とも訳されます。神の愛は人間の罪を赦す愛です。それはイエスの十字架に顕されています。その愛に触れた者は人をも愛することができる者とされ、人をも赦すことができる。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」愛をいただくのです。◇この神の愛・キリストの愛に立つときに、私たちは互いに互いを大切にする、敵をも愛する者へと変えられていきます。神の愛を知らずに生きる者は、この世に生きることの真の幸いを見失ってしまい「無に等しい」者となってしまいます。   

 

 

      JJ   赦 し か ら 和 解 へ    JJ 

2016.6.26         フィレモンへの手紙8-22節(福久織江神学生)

 

パウロは、逃亡奴隷オネシモをしばし手許におき、自分に仕えさせました。そしてオネシモは、回心し信仰を与えられ、善き働き人へと変えられていったのです。しかしパウロはこれで良しとはせず、主人フィレモンへ彼を送り返します。◇フィレモンがオネシモを赦すのか、それとも処罰するのか、確証がないままこの手紙を持って戻るオネシモ・・・道中遁走することだって出来たのですが、フィレモンの許に下ることを選びとりました。◇赦しとは、手放すことを意味する語です。和解とは、敵だった者が友になることを意味する語です。パウロは、双方が向き合い新しい関係性に生きる‘和解’を目指したのです。なぜなら、神御自身がご自分の命をかけて、私達たちに和解の道を開いて下さったことを知っているからです。私達が神に向き直すだけではなく、人と向き直すことをも選び取る時、そこには神の国が新たに生まれているのです。そしてそこには、主にある希望も与えられていくのです。

(「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。」ルカ10:2より)

   

 

 

    JJ  神 は 真 実 な 方 で す  JJ 

     2016.7.3        第一コリント10章13節(松田和夫牧師)

 

 

◇この「真実」という言葉は、聖書に「信仰」と訳されている言葉と同じものです。その言葉ピスティスとは、旧約の言葉ではア-マン、これが私たちが信じて同意し祈るときの言葉「ア-メン」です。それは、神がすべてにおいて統べておられる方であり、真の存在であり、すべてのこと・ものを支え生かしておられる方であることを示しています。神のみがすべてにおいて「まこと」の方であり、それ故にまた、人が真によりどころとして生きる根拠となる方であることをも示しています。◇人間の不真実なことはアダムとイヴ以来、はっきりとしています。聖書はそれをまず語っています。ですから、人間は神に頼ろうとせず、武力に頼り、偶像に頼り、人間に頼ろうとします。現実に私たちがぶつかる試練や苦難の中で、真実なる神の存在を知らなければ、ただそれを歯を食いしばって耐えるか、運命と諦めて希望もなく消極的に生きるしかないのです。◇しかし、神を知る者には感謝なことに、主イエス・キリストにあって、すべてを益としてくださる神を信じることが許され、どんな苦難の中にあってもそれを通して慰めが与えられ、さらに希望へと導かれる。どんな困難の中におかれても「逃れの道」が備えられることを信じることができるのです。主イエスの十字架の死も天に続く道でした。そこに神の真実は顕れていたのです

     JJ キ リ ス ト わ が 内 に あ り て  JJ 

2016.7.10          ガラテア2章19-21節(松田和夫牧師)

ガラテア地方の教会にも旧約時代以来の律法主義がありました。人は律法の実践によって救われるのではなく、キリストの十字架に示された神の福音を受け入れる信仰によって救われる、これがパウロがどこまでも主張する「信仰義認」でした。ガラテアの信徒たちがそのことから離れてしまうのを知ってパウロは怒りをあらわにしています(3:1)。◇これまでの律法実践の優等生であったパウロは、自分がキリストに救われた体験から今の自分は「キリストと共に十字架につけられている」といいます。それは、律法に縛られたこれまでの自分が神の福音により救われ、律法に死にそこから解放されたことを意味しています。それをパウロは「キリストがわたしのうちに生きておられる」といいます。律法に取り付かれていた旧い自分は死に、キリストとの一体感の中で生きていると。◇ここで「義とされる」とは救われるということですが、人間が罪から救われるのは律法によるのではなく「今肉において生きているのは」「わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰による」とパウロはいいます。これは「神の子の真実(まこと)」、によって生きているとも解されます。キリストの十字架の出来事に現れた「神の子」キリストの真実・救いの御業、神の御心(愛)、それが人を救うのであると。信仰とは、その神のほうからなされた救いの御業・十字架の出来事をわが事として信じ受け入れることです。

 

      ◇ キ リ ス ト の 平 和   ◇

 

 

2016.8.14  エフェソ:211-18節(松田和夫牧師)◇「キリストの平和」とは本来「シャ-ロ-ム」のことです。復活のキリストも弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われました(ヨハネ20:19)。これは、神がくださる平和・平安のことです。人の手によるものでなく、人の知恵によるものでない、永遠に変わることのない神の愛・真実からくるものです。ロ-マ300年の支配下にあって貫かれた信仰の核にあったのが、この「キリストの平和」でした。◇現在という時代はさまざまな領域において不安や不安定が絶えない時代でしょう。国家同士が、また、人間同士も互いの平和を本当に求め合っているのかどうか。多分に自国や自分のことだけを優先させ、相互理解・相互利益を求めることに忍耐できないでいるのではないでしょうか。◇エフェソ教会にあったユダヤ人と異邦人との間の「敵意」による「隔ての壁」を取り壊す道・和解のへ道は、「キリストの十字架」による「平和」にあることを、ここでパウロは説得的に語っています。それは、救いの恵みにあずかる以前の私たちと、あずかった今の私たちのことでもあります。十字架のキリストを知らなかった私たちは「敵意」の壁=「罪」を逃れられない者たちでした。しかし、キリストの血による贖いを受け入れる時、罪赦され、神との間に和解し、人を受け入れ赦す道が開かれます。国と国との間もまた然り。

       ◇ 涙 と 共 に 種 を () く  

 

                  2016.8.28  詩編126篇(松田和夫牧師)◇天地万物の造り主、命の主である神は、今も日々、時々刻々に創造の業をなしておられる。自分が今ここに生きてあることそれ自体が、実は神の御業を表していることを知らねばなりません。けれども、わたしたちはのそのことに気づくことなく、遠く神から離れて生きています。◇イスラエルの民は主との間で契約をなし、自分たちの主なる神の救いへと導かれた神の民でありながら、その主から心は離れていました。バビロン捕囚という民族の苦難・この一大出来事は、神の己が民に対する大きな信仰の試みの業でした。彼らにとつては深く信仰を刷新させられる出来事となります。◇けれども、この苦難の期間を通して主によって懲らしめを受けた彼らは都へと再び「連れ帰らされる」時が与えられます。出エジプト以来の主のこの「大きな業」は彼らにとって「ネゲブに川の流れを」導いてくださるかのような神の奇跡の出来事でした。◇わたしたちの生きる現実も、神の御心から離れて生きる時には自ら苦難を招き、この世で「涙と共に種を蒔く」こととなります。しかし、そのような中にあっても主へと立ち帰らされる時が来ることを信じて待ち望む者には「刈り入れる」時もまた、必ず主が備えてくださることを、真のこととして示されています。真実、主の御心に生きる者には「涙」は「喜び」に変えられることを知ります。

       ◇ 神はその独り子を賜ふほどに  ◇

 

                 2016.9.4  ヨハネ3:16(松田和夫牧師)

◇賛美歌「まぶねの中に」は主イエスの生涯が歌われています。父なる神の御心のままに生きて「神の国」の福音を告げ知らせた主イエスが、「人となりたる活ける神」であったと。この「まことの人にしてまことの神」であったお方イエス、「この人を見よ」と。イエスは偉人の一人であったのではないのです。

ヨハネはイエスを「神の独り子」と言っています。◇神の実質(愛、真理、義)そのものであったイエスが、わたしたちのもとに来られたのは、なんのためであったか、それを3:16は証ししています。イエスを救い主・キリストと信じて受け入れる者は救いを得て、永遠の命に入れられる、神の国の住人とされる。

そのためには、イエスの十字架の犠牲が必要であったことを、このヨハネの聖句は語っているのです。◇わたしたちがこの世で生きる苦しみがどこから来るか。神の御心から離れ、的外れに生きている、その罪なるところがイエスの十字架によって(あがな)われて初めて、わたしたちは真に自由にされ、神の愛に生きる者とされ、朽ちることのない命へと変えられるとパウロも言っています。それは復活の主によって与えられる神の霊・聖霊の働きによるものです。十字架のイエスを仰ぎ見るとき、罪の頑なさは取り除かれ、神の愛を知ります。わたしたちが互いに兄弟姉妹として愛し合うとき、神の愛を知る者とされるのです。

 

 

 

         ◇  老 い の 日 に も 見 放 さ ず   

 

        敬老感謝礼拝  16.9.11  詩編71:9-19(松田和夫牧師)◇旧約の時代、長寿は神の祝福の現れでした。現在は「アンチ・エイジング」などと言ったりします。命は人に依らず、神の導きであることを知るべきでしょう。とはいえ、老いの迫りを感じる時には誰しも不安を覚えます。半生を主への信仰に生きてきたこの詩人の心の内にもそれがないのではないようです。神への賛美の意志がありながら、「わたしは力を奮い起こして進みいで」(16)とあります。◇しかしまた、主なる神が自分の確かな「避けどころ」「砦」であり、生きる上での「希望」を与え導かれた方であったことを、若いころから実感させられてきたのも事実なのです。信仰の真実なのです。自分が置かれている現実の危機、老いへの恐れ、それらから救われる道は主にしかないことを知っている詩人は「見放さず」「見捨てないでください」と祈り求め、主を賛美することをやめません。◇神の恵み・御業がどれほどのものであるかを、この詩人は若いころからよく知っていたからです。「汝の若き日に造り主を覚えよ」です。主の恵みは「語り尽すこと」できず、なお「語り伝えさせてください」と。「老いの恵み」はこのようなところにもあるのです。詩人は老いの日にも主との交わりの断たれないことを切に願います。主イエスは言われました。「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と。

 

 

 

 

                 JJ  な お も  希 み を (いだ) い て  JJ  

                                                             

                                                            2016.9.18               創世記15:1-6(松田和夫牧師)◇創世記15:6の言葉はパウロのロマ書4:18に引用されている有名な聖句です。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」と。義とは、神さまとのあるべき関係のことです。わたしたちの、神さまとの間の正しかるべき真実の関係。それがアブラハムに認められているのです。そこには、神の義と人の義とがあります。もちろん、この二つの順序は神の義が先にあってはじめて人の義があるということです。◇アブラハムの場合、神がまず先に祝福の約束を告げます。それは神の恩恵であり。神の真実です。人間の側にたとえ疑いや不満があったとしても、変わることはないのです。神の祝福・神の救いの約束、それはキリストの福音にあらわされています。わたしたちが神を愛したのではなく、神がまずわたしたちを愛してくださったとヨハネ福音書が言うようにです。◇「望むべくもあらぬ時になお望みて信じたり」と、パウロはアブラハムの信仰について語ります。現実に望みがとても持てないような状況があっても、それでも主なる神の約束の言葉は堅く立つ、主の救いの御業は揺るがない。十字架は揺るがないのです。キリストの復活がそれを保証しています。ですから、心屈するとき、先が見えないとき、希みが断たれそうなとき、主の義・真実(まこと)に立ちたいのです。

 

 

 

 

                 JJ  前のものに全身を向けつつ  JJ  

召天者記念礼拝

2016.9.25  フィリピ3:12-16(松田和夫牧師)◇「なすべきことはただ一つ」パウロはそれを「目標を目指してひたすら走る」ことと言います。ここで「走る」は「跡を追う」とも訳せる言葉です。誰の跡を追うのか、キリストの跡をひたすら追い求めるのです。パウロはキリストの復活にあやかって「なんとかして死者の中からの復活に達したいのです」と言います(11)。それは一言で「救い」ということでしょうし、「永遠の命」ともいえるでしょう。◇このパウロの強い願いはどこからきているか。「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(12)とあります。パウロの生涯での復活の主との出会い、キリストの十字架と復活に示された神の愛と力、それが彼の信仰の、福音伝道の原動力でした。◇「捕らえられている」とはさまざまな言い方ができるでしょう。「キリスト我が内にありて生きる」とも「生きるはキリストなり」とも。キリストにおいて与えられる神の愛・赦し・力が自らの上に現れる。それがパウロの苦難をも恵みとする神の力、神の福音でした。◇ですから、十字架と復活を無にしてはならないと、福音を誤解していた者たちにパウロは警告しています。彼らは自らの「国籍」を地上においているからです。「われらの国籍は天にあり」(20)。天に向かう「馳せ場」を共に主にあってパウロを先達を倣って、走り続けましょう。

 

 

        JJ  わ た し の 記 念 と し て  JJ  

2016.10.2    第一コリント11:23-26(松田和夫牧師)◇プロテスタントの教会では、礼典として「主の晩餐式」と「バプテスマ式」を残しています。わたしたちの教会は毎月第一主日の礼拝で「主の晩餐式」を行います。教会によって少しずつ違いはありますが、「主の晩餐」は最初期の教会でも既に行われていたことが、この箇所を読むと分かります。コリントの教会ではしかし、その意味をよくはわきまえずにいた信徒たちがいたようです。それに対してパウロは、厳しく戒めています。◇「主の晩餐式」は、キリストの「最後の晩餐」が基にあります。十字架にかけられるという前夜、主イエスは弟子たちと共に「晩餐」=「夕食」を共にされたのです(ヨハネには掲載なし)。それは「過ぎ越しの祭」の夜でしたから、祭で犠牲とされる羊に主イエスを見立てた記事ともなっているのです。そこには救い主、十字架と復活の主がおられます。◇「主の晩餐」は、この主イエス・キリストの救いの業を、主がなされたようにパンとぶどう酒とを用いて「記念する」=心に想起し深く思いを致す時なのです。パンはキリストの体、ぶどう酒はキリストが流された血を意味しています。飲食という形でそれがなされたところに何か深い意義を、わたしたちは見出します。飲食は生きる上での基本ですし、「神の国」を天上での祝宴として主はイメ-ジされていたからです。

 

 

    JJ  その名をインマヌエルと呼ぶ  JJ

                      2012.124           イザヤ書7:10-14(松田和夫牧師)

 

◇アドベントに入りました。巷にイルミネ-ションが輝き、第九が響くころ、わたしたちは、静かにみ言葉の黙想へと導かれながら、この世の救い主の到来を迎えたいものと願います。一年の終わりに近づき、そぞろわが身の来し方、世界のこの一年の動向などへと思いは行きますが、さまざまの出来事の一つひとつに主が伴っていてくださったことを覚えますときに、この「インマヌエル」(神はわれらと共にある)そのことを、改めて示されます。◇主イエスが神の御子・救い主としてこの世に遣わされる、そのことの預言がイエスから700年も前に、神のご意志として示されていたことを、また、その方がインマヌエルなる神であることを「しるし」として、示されていたことを、ここで知らされます。◇ユダの王アハズは、思いがけない窮地に立たされて、激しく恐れ惑います。彼は一面有能な策略家でありました。密かな自分のたくらみに恃んで、神の言葉に従おうとはしません。「主を試すようなことはしない」とは、謙遜ならぬ主をあなどる言葉でした。わたしたちも、わが身の上に一大事が起こると、神を袖にしてしまいがちです。◇イザヤは「それゆえ」と言います。主なる神は、このように不信仰なわたしたちであるが故に、「わたしの主が御自ら」主の御心の「しるし」を与えると言うのです。それは、「おとめが身ごもって男の子」を産むという驚くべき神のみ業です。その神の御子は「インマヌエルと呼ばれる」とは、どんな時にでもわたしたちを支え導き、真にわたしたちが揺らぐことなく「確か」とされる、救い主イエス・キリストのことです。

 

 

 

     JJ 暗闇に住む民は大いなる光を見る JJ

                     2016.12.11           マタイ書1:12-17(松田和夫牧師)

 

◇天地創造の始め、混沌と闇の中で神の御言葉によって初めに成ったもの、それが「光」でした。(創世記1:3)「神は光を見て、良しとされた」。この光の創造によって世界はすべての被造物とその秩序がもたらされた。ですから、旧約では「光」は「神のいのちと祝福」を意味しています。◇しかし、神の「像(かたち)」に似せて造られた人間の歴史は、神に背き、祝福から遠ざかる歴史でした。イスラエルの主として顕れた神は、その民を多くの試練を通らせるなかで、ご自分の民とされていきます。神は常に共にいてくださる神であり、暗闇に覆われるわたしたちのところに「光」である方を遣わされたのです。それがイエス・キリストです。◇この箇所で、マタイは、この神のご意志を告げたイザヤ書の預言(8:23-9:1)を引用し、イエスの福音宣教のなんであるかを示しています。それは、今「暗闇に住む者」「死の陰の地に住む者」に射し込む「光」であると。わたしたちの生きる世界の現実、神に背いて生きる人間世界の現実=「闇」を思うとき、また、自らの人としての限界(罪と死)を突き付けられるとき、「光」であるイエスを求めずにはおれないのです。◇ヨハネ書では「光」は「いのち」、まことの「神のいのち」です。このキリストの光に照らされるとき、わたしたちは「まことのいのち」に生きる者とされます。「わたしに従う者は暗闇を歩まず、命の光を持つ」と主は言われます。主は光であるからです。「まことの命(罪と死に勝利する)」に生きる道がそこにあります。救い主キリストが来られるアドベントの日々を光に向かって過ごしましょう

    JJ  あなたの(わざ)を主にゆだねよ  JJ

         2017.2.5                          箴言16:1-9(松田和夫牧師)

 

◇「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる。」(高村光太郎『道程』)人の生きるのは、自分が道を切り開いていくようなものです。生きるのは選択の連続であり、その結果、おのずと自分の生涯が形作られていきます。けれども、自分が切り開いてきたように見えて、よくよく顧みればそこには自分ならざるものの力が働いていたことにも人は気づかされます。◇聖書は明確に、人の生きる道を導くのは神さまであることを語っています。「人間の心は自分の道を計画する」しかし、その道の「一歩一歩を備えてくださる」のは「主」であること(9節)を、箴言は訓えています。人が生きる世界は限られており、その力も知恵も「人の領分」の中でしか働かない。「神さまの領分」があることを人間は知らねばなりません。◇そこを見失っているところから、この世のさまざまな混乱や不正・邪悪、また生きる苦悩も、出来してくることとなる。人間に自由な意志があることは確かなことですが、そのことは、自分がすべてにおいて絶対であることを許すのではないです。自分を越えて働くもの、神さまの次元とのあいだで人も生かされていくものであることを知ることこそ、真の自由への道でもあります。ですから、「あなたの業を主にゆだねよ」(3節)と、語りかけられています。◇これは「御心がなりますように」という主イエスが最後に祈られた祈りに通じていきます。自分の思いだけで何事も成すのではなく、主の御心がどこにあるか、まずそれを祈り求めていくときに、心に思い計ることも、まことの自己の道として従うことが許されて行きます。

    JJ わたしの恵みはあなたに十分である JJ

             2017.2.12           第二コリント12:5-10(松田和夫牧師)

 

◇「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。」(第二コリント13:4)このパウロの言葉はまた、パウロ自身の生き方の上に現れているものです。パウロの持っている弱さは「十字架の主」ご自身の弱さゆえの強さという逆説そのものを生きるものでした。◇わたしたちは、生きている時にさまざまに自分の弱さを体験させられます。自分は強いと確信している人は何かの錯覚か虚勢にすぎないのに、それに気づかないだけです。その意味で、パウロがいう「とげ」とは、人間の持つ弱さを象徴するものでもあります。だれもがこの「とげ」をもって生きています。◇パウロはその「とげ」を取っていただきたいと「三度主に願い」ます。

 

しかし、主から与えられた言葉は「わたしの恵みはあなたに十分である」でした。苦しみそのものが、恵みであると、だれが信じられるでしょうか。人からこのように言われたとしたら、誰しも激怒します。主の御言葉であればこそ、そこに神の御心があるということです。◇主は言われます。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される(完全となる)」と。この世にはさまざまな「力」が存在します。力の強さ・弱さがあります。本当の強さは本当の弱さのうちにあるということです。わたしたちが真に自分の弱さのうちにあるとき、神の力・キリストの力が働くのです。「心の貧しい人々は幸いである」と主が言われたことに通じます。わたしたちも「自分の弱さを誇る」者であることが許されています。そこに「十字架と復活のキリスト」が、共におられることを信じるからであります。

      JJ 神 に 近 く あ る こ と の 幸 い JJ

         2017.2.19             詩編73篇13-28(松田和夫牧師)

 

◇アサフはソロモンの神殿における賛美リ-ダ-の一人であったと言います。そのような人物が、この世の「神に逆らう者」たち、「驕る者」たちを「うらやんだ」とあります。彼らは苦しみを知らず、労苦もなく、病にかかることもないように見える。この世的に肥え太っているその姿を見て、「あやうく足を滑らせ・・・踏み誤りそうになっていた。」アサフは神さまの御心を疑った。「恵み深い」神は、なぜこのような世の不公平に見える事実を許されるのかと。アサフの苦悩は深かった。◇ここには「ヨブ記」に通じる神への訴えがあります。この世のことに眼を奪われるとき、わたしたちも神さまの御心を見失いそうになります。信仰がなくっても、そこそこ安穏に生きていけるではないか。むしろ、もっと裕福な生活をしているではないかと。人の眼はわたしたちを誘惑します。アサフならずとも、これはわたしたちにも襲ってくる試みです。◇しかし、アサフは苦悩の淵にあったとき、神の導きにより「彼らの行く末を見分ける」ことを示されます。それは「聖所を訪れた」ためでした。礼拝の中で、神さまと出会う祈りの中で、神さまによって霊的に示されたことでした。世の祝福・偽りの祝福ならぬ真の神の祝福がなんであるかを示された。人の思いや知恵によらぬ、神の思いを知ったのです。「わたしの思いはあなたたちの思いよりも高い」(イザヤ55:9)◇アサフは自分の「愚かさ」を悟ります。神が共にいまして「わたしを導」いてくださることが、何にもまして力強い「心の岩(力)」であり、神に近くあることの幸いを、恵みによって改めて知る者とされるのです

     JJ  あなたの率いる民は多すぎる  JJ

        2017.2.26                 士師記7章1-8節(松田和夫牧師)

 

◇自然数1,2,3・・は無限に数えることができます。限りがない。人間の欲望もまた。「山高きが故に尊からず」と言います。それに倣えば「数多きが故に尊からず」です。主なる神はギデオンに命じます。「あなたの率いる民は多すぎる」と、真に必要な数だけに絞れ、と。なぜ? 数の力に頼って勝利すれば自分たちの力に「心がおごり」、主に向かう心がそれだけ減衰するからです。わたしたちは主の御心がどこにあるかを示されます。◇3万2千人いた兵は1万人にまで減らされます。まず、「恐れおおのいていた」者たちが排除されます。しかし、主は「まだ多すぎる」と言われ、残りの者たちを水辺に連れて行き、水を飲ませます。その中で「膝をつき水をかがんで飲んだ」者たちは帰らされます。これは臨戦意識の低い者が排除されたことを意味します。とうとう真の戦士300人が残されます、この数で12万のミディアン人の軍と戦えというのです。◇恐るべき神の戦略。「真に神の力に依り頼む」戦いは数が問題なではないと。どれだけ深く真に神の力にゆだねきれているかです。わたしたちはともすれば多数の力に頼ろうとします。何にしても、数多いほうが有利、力になる、と考えてしまいます。数字の魔力、それに誘惑されます。けれども、主イエスは言われました。「必要なものはただ一つ」(ルカ10:42)と。◇現実の事に処する時も同様です。神の御心を求めて行く時には、この世の力にあれこれ頼ろうと心乱すことをまず慎まなければならない。ここでも「力は弱さの中で完全となる」、それ故主に委ねることが求められています。

     JJ  それをほどいて引いてきなさい  JJ

               2017.3.5     ルカ:19章28-38節(松田和夫牧師)

 

◇受難節に入りました。今年のイ-スタ-は4月16日です。イ-スタ-までの主日を除く40日間を「受難節」(レント)といいます。「福音書は長い序文をもった受難物語である」といいます。イエス・キリストの十字架と復活、そこにキリスト教信仰の原点があります。◇受難の出来事は過越祭のころ、都エルサレムにイエスが入城するところから始まります。28-36節の出来事はどの福音書に記されていますが、ルカの記事が詳細です。弟子たちや群衆が主を歓迎して迎える姿は同じですが、ルカには旧約の預言書ゼカリヤ書から引用がありません。◇ここで主イエスは「ろばの子」に乗って「平和の王」として来られています。それはゼカリヤ書9:9,10の預言に基づきます。「彼は神に従い・・・ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗って」「諸国の民に平和が告げられる」と。真の平和は王であるキリストによってもたらされることを覚えます。◇国の内外における現在の混乱と不穏な状況を思うとき、まことの平和・平安の主をわたしたちは伝えていくべきでしょう。わたしたちは皆、主に呼び出され、主を背に乗せた「子ろば」ですから、主の御言葉を運び、主の愛を届ける、その働きのために召されていることを、「主がお入り用」とされていることを覚えるのです。◇わたしたちは「子ろば」のごとき小さきものでしょう。それこそ欠けの多い「土の器」であります。しかし、そうであればこそ十字架の主の恵みに与る者たちでもあります。そのことを深く覚え、十字架への道を進まれるキリストのみ跡に従う決心を新たにしたいのです。

 

 

      JJ 目 を 覚 ま し て い な さ い JJ

           2017.3.12       第一テサロニケ5章4-11節(松田和夫牧師)

 

 

◇「目を覚ましていなさい」これは新約聖書に何度も出てきます。それは主の「再臨」の時に備える態度として言われています。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が来られるのか、あなたがたには分からないからである」(マタイ24:42)ここでは「主の日」と言われています(5:2)。それは「終わりの日」でもあります。その日がいつでああるかだれも知らないのです。◇世の中が悲観的な事態ばかりで先が絶望的に見えるようなとき、わたしたちはすぐ終末観に捕らわれます。それを喧伝し都合のいいように神の審きを語る者たちも出てきます。パウロは「目を覚まし、身を慎んでいましょう」と勧めます。◇神はキリストを通してわたしたちを「救い」に与らせてくださっている。その意味で「光の子」とされているわたしたちは、たとえ終りの日がいつ来たにしても、浮き足立ってうろたえることなく、また、悲観的にもならず、しっかりと主につながり、主を仰ぎ、この「今」という与えられた、神さまとの間で生きるこの時を「主とともに生きる」ことです。そのために主の尊き死と復活による救いのみ業はある、それがパウロが言わんとしていることです。◇ですから「信仰と愛」を胸当てとし、「救いの希望」を兜として、主にあって生きるようでありたいのです。わたしたちは皆「小さな終末」(死)を前にして生きる者たちですが、それはまた「主の日」なのですから、主がその御手にすべてを置いてくださる。その時がいつ来るにしても信仰をもって「主と共に」生きるところに「死のとげ」をも抜かれて御国へと歩むことが許されます。

      JJ キ リ ス ト の 謙 遜 に (なら) JJ

                    2017,4,2         マタイ:11章28-29節(松田和夫牧師)

 

 

◇2017年度に入りました。年間主題は「キリストの謙遜に倣う」です。生きていて何一つ「重荷」を感じることがないと言う人はいません。主イエスは「休ませてあげよう」とすべての人に呼びかけておられます。「わたしのもとに来るように」と。誰もが主のもとに行くことで「安らぎ」を得ることができるのです。◇主はわたしたちの重荷に替えてご自分の「くびき」を背負わせ「わたしに学べ」と言われています。ユダヤの民は律法のくびき(掟・戒め)にあえいでいました。主イエスの「くびき」とは神の愛からくる福音のくびきです。それは「負いやすく」「軽い荷」なのです。このことは信仰を通してわたしたちにも与えられるものです。◇わたしたちは自分で自分を縛る「くびき」をつくってしまいます。完璧主義や業績主義、これができなければ、あれができなければ・・。「Doing」の絶対化です。そこから生きることの重荷を負うことになっていくのです。主にある「(魂の)安らぎ」とは、神のまことの命にあるときの「平安」です。キリスト・イエスとつながって生きるところに人が真に安んじて生きられる源があります。それは人の「Being」をそのままで良しとされる神の愛です。◇主はご自身の「柔和」と「謙遜」を学ぶ(倣う)ことでそれを自分のものとするようにと、主のくびきとして差し出されます。キリストの「謙遜」とはどこまでも神の御心に従う従順さのこと、人が努力して手に入れる類のものではないです。わたしたちはただ主に倣うこと、主の御霊につながって力を与えられ、へりくだらされて、キリストのうちにとどまり、主の謙遜に近づきます。

     JJ  主 は 振 り 向 い て  JJ

                2017.4.9   ルカ:22章54-62節(松田和夫牧師)

 

 

◇ペトロの裏切りのことばはどの福音書にもありますが、「主は振り向いてペトロを見つめられた」はルカだけが記しています。この一文の持つ重みを感じます。十字架の出来事の前に、ペトロに対するこの主の顧みがあることにわたしたちはなにか救われる思いがします。ペトロの決定的な失態、それをわたしたちは決して笑うことができない。わたしたちの現実が主を裏切っていることは一つもないとは誰も断言できないからです。いや、むしろ、このイエスの「眼差し」はわたしたちに向けられているのです。◇ペトロ、この一介の漁師から「人をすなどる漁師」へと主に召された者。主イエスは「神の国」の宣教を知識階層や地上の有力者たちに期待されたのでは全くなかったのです。「神の国」はこの世の高ぶる知恵や力によっては知ることのできないものだからです。多くの失態や失敗を通して、ペトロは主による信仰の訓練を経て、やがて最初の教会の中心となっていきます。◇最後まで欠け多きペトロこそは主に愛された神のしもべでありました。教会はこのような者を「岩」(=ペトロ)としてその上に建てられているものです。わたしたちはいわば皆ちいさなペトロです。何度も主を裏切りつつ、しかし、この「主の赦しの眼差し」に包まれて少しずつ成長していくのです。十字架の死と復活の主はきょうも罪深きわたしたちのために、神の真実と愛の眼差しをもって「神の国」へと招いておられます。キリストの受難はその大いなる神の招きなのです。

      JJ  霊 の 思 い は 命 と 平 和  JJ

                             ロ-マ:8章1-11節(松田和夫牧師)

◇聖書全体を指輪に譬えると、ロマ書はその宝石の部分、さらに8章は宝石の尖端にあたると言います。見出しに「霊による命」とあります。これこそ宝石の輝きでしょう。8章には「霊」という言葉が20あまりも出ています。「聖霊」それは「神の霊」「キリストの霊」です。キリストを信じ受け入れるとき、キリストの霊が心の内に入ってきてくださり宿ってくださる。「内住のキリスト」です。◇「キリストに結ばれる(キリストにある)」とき、私たちはもう「罪に定められることはない」とパウロは言います。キリストと一体となる。ぶどうの木とその枝との関係です。キリストの霊によって罪は除かれ、霊が働く。霊的に死んでいた者が再び神の命の内に生き返らされる。それが「体の甦り」です。魂だけが救われるのではない。◇「肉に従うとき」「肉の支配下」にある命は「神に喜ばれない」。「肉」は罪が働く時の私たちの在り方です。神さまに背く、神さまの愛を知らない、自分の力、自分中心の思いに生きる、すべて「肉の思い」です。「霊の支配下」にあるとき、自分を「内なるキリスト」に明け渡すとき、神のまことの命に与り、神の平安に与ることができます。◇信仰の生活は聖霊によって導かれる神の愛と平和・平安の内にある生活です。この世のものによらない、何物にも動かされない、死にさえ打ち勝つ力を与えてくださる「慰め主」「助け主」(ヨハネ)それが「聖霊」なる神です。主イエスは罪人ザアカイのところに宿られました(ルカ19)。己れを低くされ主を喜び迎えるところに主の御霊もおられます。「肉の思いは死」「霊の思いは命と平和」です。Ω

 

 

     JJ  繰り返し教え、語り聞かせなさい  JJ

      2017.5.14                  申命記619(松田和夫牧師)

◇イスラエルの民はモ-セに導かれ「荒れ野」の40年の苦難を経て、神の約束の地カナンに入ります。申命記はこれまでの彼らの来し方を顧みさせ、もう一度神の御心である律法を告げ知らせ、かの地にあっても、これを生活の事々にわたって守るようにと命じます。「そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、・・大いに増える」(3)と。モ-セは神の祝福の約束を告げます。◇この律法は、神が彼らをエジプトの奴隷状態から救い出されたことに対する双務的な契約でもあります。そこには救いの神・主の愛が込められています。ですから「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と。ここには神に選ばれし民イスラエルと主なる神との間のあるべき姿が語られています。主イエスはこの言葉を律法の教えを集約した最も重要な掟の一つとしたことは(いま一つ「隣人を自分のように愛せ」)よく知られています。◇けれども、イスラエルの民は優等生ではなかった。度々、主を裏切り、文句を言い、不平・不満をぶつけた。そのたびにモ-セをてこずらせ、十戒の板を投げ捨てることもあったのです。それゆえに「子供たちに繰り返し教え、・・・これを語り聞かせなさい」(7)と。主によって救われたことの恵みを忘れることなく、「主を畏れ、主にのみ仕え」ることを命じられます(12)。十戒の第五戒「汝の父母を敬え」の背後にはこのような愛なる主の御心があります。主イエスは「わたしにとどまりなさい」と言われた。わたしたちも「繰り返し」御言葉に立ち返り主にとどまるようにしましょう。Ω

 

 

        JJ 神 の 御 心 に 適 う 悲 し み JJ

            2017.5.21       第二コリント75-13(松田和夫牧師)

 

◇第二コリントの手紙には編集上の問題があると言われています。ここの5節以下は直接には2:13から続いているようです。この箇所にはパウロがこれ以前にコリント教会に送った「涙の書簡」と呼ばれる手紙のことが触れてあります(8節「あの手紙」)。コリントの教会内に起こった「例の事件」(11)についてパウロはかなり厳しい内容の意見を送っていたようです。彼らを悲しませるような。それについてパウロは後悔していた。◇けれども、テトスのもたらした情報はパウロを慰め、喜びに満たしたのでした。パウロの心配は杞憂に帰した。コリントの人々は悲しみと共にパウロの意見を聞き、それだけでなく、彼らは「悔い改め」たということが知らされたからでした。彼らの悲しみは「神の御心に適う悲しみ」であったとパウロは言います。それは、福音的な意味で悲しんだということでしょう。そこには「悲しむ人たちは幸いである」という主イエスの御言葉が響いています。◇彼らは悔い改めに導かれ、いっそうパウロの伝えた福音を身をもって表すこととなったのです(11)。「世の悲しみは死をもたらす」とパウロは言います。神の御心を求めないとき、悲しみはどこに持っていきようもありません。絶望しかない。救いがない。◇けれども、神の御心に添って悲しむとき、それは悲しみに主が寄り沿っていてくださることを知る者の悲しみです。そこには悔い改めが伴います。神へと向かう心が一層起こされていくのです。現実は悲しみ苦しみが絶えない。しかし、それを神の御心に添って受け止めていく時には御霊によって救いへと導かれます。Ω

        JJ  聖 霊 が (くだ) る  JJ

                 2017.6.4  使徒言行録21-13(松田和夫牧師)

◇聖霊が弟子たちに降ったときの様子が記されています。「聖霊降臨」です。教会ではペンテコステと呼んでいます。五旬祭の日に起こったからです。それは主イエスが言い置かれていった約束の出来事でした。ヨハネ書(16:13)では、この聖霊をイエスは「真理の霊」と呼び、それは「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と言っています。◇聖霊が降ったとき、彼らは「゛霊゛が語らせるままに」さまざまの国の言葉で「神の偉大な業」を語ります。彼らは聖霊が降るまでそのような力はなかった。イエスの十字架の死と復活の意味が真実にはわからなかった。ただ恐れと不安の中でなすすべもなく主の御言葉を信じ、聖霊を祈り求めていたのです。そして、聖霊が彼ら一人ひとりに降ったとき、みな力を受け、救いの意味を悟り、大胆になります。◇彼らの言動は真に魂の自由を得て解き放たれた者のそれでした。聖霊はことばの垣根、人の垣根を越えて広がるのです。神の御心・神の真理はすべてのものに及んでいくからです。彼らを聖霊の狂気が襲ったのではない。聖霊は一時の興奮ではない。むしろ「悟り」へと導く冷静なる神の力です。◇聖霊は神の霊。それは人を新たにし、神の知恵と知識を授け、神の命に生きる者とします。聖霊は既に降った。キリストは聖霊を心に満たしてくださる。「神の国」は「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」(ロマ14:17)。「聖霊に満たれた」信仰の生活とは聖霊に導かれる生活です。「求めよ、さらば与えられん」と主は言われる。聖霊を祈り求め、聖霊に満たされたいと願います。「神の国は・・聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」ロマ14:17Ω

    JJ この最も小さな者の一人に JJ

          2017.6.11                   マタイ253140(松田和夫牧師)

 

◇「花の日」礼拝は19世紀に米国のメソジスト系の教会から起こったとされています。子供たちの宗教教育をと願って、花が豊富なこの時節にうつくしい花の姿を通して神さまの恵みに感謝の心を養うためにと。◇教会の前庭も今、紫陽花が満開を迎えています。植物がその季節ごとに、忘れずに花をつけるというのは、考えてみると不思議なことです。神さまの見えざる力とご計画を感じさせます。「野の花を見よ」と主イエスは指し示されました。そこにある神の霊的な力を気づけと言われているように思わされます。◇天地を創造された神のご見えざる意志が宇宙を含めて、すべてのものに満ちわたっていることを覚えます。神の愛のわざは、人においてはキリスト・イエスにあって示されています。主イエスこそは神の御心がそのままに生きた形で現れたお方でした。主の生涯は実に「最もちいさい者」(40)としてのそれであったのです。「わたしの兄弟である」という言い方にそれは示されています。主イエスは、この世の人々のあいだで「最も小さくされた者たち」と共に生きておられたからです。◇この箇所にはいわゆる「最後の審判」のことが語られています。それはこの世の終末のとき、わたしたちの死後のこととしての神の審きですが、「羊」とされるか「山羊」とされるか、それは地上でどのように生きて来たかによっています。「正しい人たち」とは「父の祝福」「永遠の命」に与る者たちのことですが、そのような人たちとはどのような人たちであるのか。わたしたちは主イエスのふしぎな譬えを心して受けたいと願います。Ω

           JJ 目 を 覚 ま し ひ た す ら 祈 れ JJ

                               2017.6.18         コロサイ426(松田和夫牧師)

 

◇この書簡の差出人は「パウロとテモテ」となっていますが、現在はパウロの名をかりて書かれたものという見解が大勢です。語り手が誰であれ、ここではキリストの福音、「キリストの秘められた計画(奥義)(3)が宣べ伝えられるよう祈りが求められています。

 

「目を覚まして」「ひたすら祈りなさい」は、自分の信仰のためでもありますが、そのような執り成しの祈りのためでもあるのです。◇キリスト者に求められるものは何よりもまず「祈り」です。原文は「祈りに専念しなさい」とあります。さまざまな現実の事に心を惑わされることが多いのですが、祈ることを忘れた信仰は空洞化します。そこにこの世の霊が入り込む。◇「祈りは霊の呼吸」。神さまとの霊的交わり。わたしたちはキリストの十字架を通して神の愛・御心を示され、神との和解・神の平安に入れられ、この世のものに立ち向かうことが許されます。祈りのなかで神の御霊をいただくところに御言葉の門が開け、キリストの救いの業にあずかる道が開かれます。◇キリストの救いにある者は「時をよく用い」、人に対して「賢くふるまう」ことが求められます。神に与えられたいのちの時間を御心に適って、神のため、人のために「よく生かして用いなさい」と。◇キリストの心をわが心とする時、相手にかける言葉も「塩味」が効いたものとなる、御心に適う言葉となる。自分のエゴに左右される言葉・振る舞いから離れ、すべてにおいて御心を求め、言うべき時にふさわしく言い、黙すべき時には黙す。それはキリストにある謙遜と柔和に倣うこと。そのために「霊の目」を覚ましていましょう。Ω

     JJ 沈 黙 し て、た だ 神 に 向 か え JJ

                                          2017.9.3         詩編62(松田和夫牧師)

 

◇「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう(神を待つ・口語訳)」と。沈黙とは心がただ無になるのではない。神の言葉・約束の前に静まり、それに従う・それを受ける姿勢です。そこには神への「信頼」があります。神は「岩」であり、「砦の塔」、また「力」と「慈しみ()」です。そうであればこそ「救い」と「希望」は「神から来る(口語訳)」と告白しています。「待ち望む」ところにわたしたちの信仰(神への信頼)があります。◇わたしたちの「信仰」はどこかあやういところもあります。現実の困難が「襲いかかる」とき、また、人間に対するする不信感に浸されるとき、自分の弱さ・頼りなさを知らしめられます。「人の子ら」は「空しいもの」「息よりも軽い」ものです。しかし、神は「岩」のごとく堅固で不動、真実な方。それゆえに真に依り頼むことのできる方です。◇命の源である神はわたしたちの生きる「力」であり、「慈しみ」をそそがれる方です。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」とパウロは言います。わたしたちが弱さの中で自分の力や周りの状況に頼るのではなく、沈黙の仲で神に信頼し、祈り、「心を注ぎ出す」ところに、救いと力を与えられます。

 

「安らかに信頼しているところにこそ力がある」(イザヤ30:15)。◇そのような神の救いの「信実(信頼するに足るまことの御心)」にすべてをゆだね、それを受け入れるところにわたしたちの側の(神の信実に依り頼む)信仰があります。イエス・キリストの十字架と復活はそこに至る道を開くために神がなされた恵みの御業でした。Ω

       JJ    年 老 い て も な お     JJ

                      2017.9.10 敬老感謝礼拝  詩編92(松田和夫牧師)

 

◇暦の上では18日が敬老感謝の日です。超高齢社会の現在ですが、旧約の族長たちの時代には、長寿は神さまの祝福の現れでした。アブラハム174歳、サラ127歳、イサク180歳、ヤコブ147歳、イスラエルの族長たちはみな長寿です。現代の常識が通用しない、神さまとの近しさがそこにはあるのだと思われます。

 

◇もちろん、人の命の長さは神の御手のうちにあります。ただ長きが故に尊からずでもあります。大事なことは、自分の生涯を「神に従って」生きるか、「神に逆らって」生きるかです。それによって幸いな人生にもなれば、滅びでしかない人生ともなります。詩編92篇は、神に従い、神に導かれて年老いた者の、神への感謝と賛美をささげた詩編です。◇定年後の人生がとかく話題にされる昨今ですが、聖書は「(なんじ)(わか)き日に造り主をおぼえよ」(コヘレト12:1)と言っています。自分の命がここにあることは、けっして単に自明のことではない。自分が命をさずかっていることについて、命の源たる神さまは常にかかわってくださる方です。被造物たるわたしたちは、ただ造られて見放される存在ではない。すべての者が神のご意志とご計画のなかで生かされていることを知ることに生きることの意義があります。◇この神の命に繋がって生きる道を、キリストは十字架と復活を通してわたしたちに開いてくださったことを覚えます。今あるこの身のままで神の救いに与る「福音」による命への道です。それは「年老いてもなお実を結ぶ」神の祝福にある命です。Ω

     JJ  背 負 い た も う 神  JJ

2017.11.19     イザヤ書46:1-7  (松田和夫牧師)

 

 

◇「ベル」や「ネボ」とはバビロンの偶像神です。バビロニア帝国がペルシア帝国に崩壊させられた時、都バビロンの偶像の神々は疲弊した「獣や家畜(の背)に負わされ」退散させられます。神々はただ彼らの「重荷」となってしまいます。それは「背負われる神」です。◇イスラエルの神、主はそうではない。「あなたたち」を生まれた時から「背負い」、「担って」こられた神なのだと、主ご自身が預言者イザヤの口を通して強く語りかけています。わたしたちの命は、生まれた時から年老いるまで、生涯が主によって背負われ、主によって生かされていく命なのだ、と。主はわたしたちを造られた方であるからです。◇偶像の神は、人が人の手により人の願いから造られたものです。人のために神とされている姿・形ある神です。人の願いが主であり、人の意志に左右されるものです。創造主であり、「活きて働かれる神」は、人によって動かされない。この神が主であり、万物は神のご意志のもとに置かれています。◇捕囚からの解放という大いなる神のみ業をイスラエルの民は体験し、改めて自分たちのまことの神に立ち帰るよう強く促されます。「わたしは神であり」「わたしは望むことをすべて実行する」と。この主の堅い約束はキリスト・イエスにあって、わたしたちに成就します。主こそはわたしたちの重荷を負い、十字架で今もわたしたちの罪を贖ってくださっていることを覚えたいと願います。Ω

       JJ  この目であなたの救いを見た  JJ

2017.12.17       ルカ2:22-38 (松田和夫牧師)

 

 

◇ルカ書には4つの賛歌が記されています。マリア、ザカリヤ、天使と天の大軍、そして、このシメオンの賛歌です。これがもっとも馴染みが薄いものでしょう。かつては大晦日の礼拝で歌われたといいます。◇ここでは幼子イエスは両親に連れられて都エルサレムの神殿に来ています。律法の教えに従って。それは救い主は正にユダヤの民の中から与えられたことの証しでもあります。神の子キリストは人の子イエスであったのです。神は二人の老人、シメオンとアンナを通して民への救いの知らせを示されます。◇幼子イエスと出会い、シメオンは「この目であなたの救いを見た」と神を賛美します。それは霊的な、信仰による確信です。イスラエルの「慰められる(救われる)」のを「待ち望み」続けてきたシメオンへの神の祝福です。「この僕を今こそ安らかに去らせてくださいます」とは、「神の平安」にあって生涯を終えることの恵みです。◇そこには誰しもが望む信仰の生涯の証しがあります。この名も無きシメオンこそは祝福された信仰の徒です。その恵みは「聖霊が彼にとどまっていた」からです。救い主キリストを、わたしたちが心に宿し、主の御言葉と主の霊にとどまり続けますときに、神の幸いに生きる者とされていきます。クリスマスの喜び、それは神の救いの出来事が、その恵みが、わたしたちの生涯にわたって注がれていくものであることを心にかけていきたいと願います。Ω

 

 

    JJ  信 仰 の な い わ た し を  JJ

                                      2018.2.18      マルコ9:20-29 (松田和夫牧師)

 

 

◇受難節に入りました。今年のイースターは41日です。それまでの主日を除く40日間が受難節(レント)です。キリストの十字架への道行きを心に覚えつつこの期間を過ごします。◇831節でイエスはご自分の受難について既に弟子たちに語っています。神の国の福音・その到来を語り伝えるために来られたイエスが、そのために十字架を忍ぶこととなる。そこに神の深い奥義をわたしたちは知らされます。◇この箇所でも「汚れた霊」からの癒やしの奇蹟が記されています。それは、イエスによってすでに到来した神の国の姿を予示するものです。「なんと信仰のない時代なのか」そこにはイエスの怒りがあります。これまでの神の律法に代わる「神の福音」を示し、悔い改め(回心)へと導かれるイエスの戦いの生涯を思わされます。◇ここで「霊に取り憑かれた」息子の父親はイエスの元に導かれ、救いにあずかります。「わたしのところに連れて来なさい」。イエスと出会うところに救いがあります。「信じる者には何でもできる」イエスのひと言に父親は自分の不信仰を心底つかれ、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と、イエスに信仰告白します。◇まことの信仰は自分の不信仰を知るところにはじめて起こされるものであることを示されます。信仰は自分の力によらない、神の賜物だからです。そこに祈りがあります。その祈りを聞かれて彼の息子は命へと生き帰らされます。Ω

 

 

        JJ  神は生きている者の神なのだ  JJ

                                      2018.2.25     マルコ121827 (松田和夫牧師)

 

 

◇エルサレムに入城されて三日目。神殿の中に入られたイエスを取り巻き、時の宗教的支配者層の人々がイエスを試み、陥れようと、あれこれと挑んできます。ここでは当時の祭司階級であったサドカイ派の人々が「復活」についてイエスを試みます。祭儀的な宗教儀式にばかり囚われている彼らの持ち出した問いかけは通俗的なとしか言えない内容のものでした。◇それを受けたイエスの言葉は怒気をはらんでいます。「あなたがたは聖書も神の力も知らないのだ」と。復活した者とは、この世にあっての姿・形がそのまま延長された命なのではない、と。「天使のようになるのだ」とイエスは言います。肉の命がそのまま生き返るのではないと。◇これは、神の永遠の命の深い奥義を秘めた言い方です。さまざまなことを思わせます。使徒パウロは「霊の体」と言っています。復活の命は神の永遠の命のうちにあってのものです。イエスはその神を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」との旧約・出エジプト記の言葉でもって示します。それは、彼らが、今も神の命にあって「生きている」とのことです。◇「神は生きている者の神」であり、人の命は神の永遠の命の中にあってはじめて生かされてある命。だから、死んだ後も神の身許にある。今・ここにある命が既に神の命のうちにあるのです。正に「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ロマ書14:8)。Ω

 

       JJ  わたしたちのために死なれた   J

       2018.3.4     ローマ5111 (松田和夫牧師)

 

 

◇受難節を過ごしています。福音書は長い序文を持った「受難物語」であると言われたりします。これがメインとなっていることは確かです。神の国の福音、罪の赦しの福音を告げ知らせたイエスが十字架にかかったこと。復活させられたこと。そこには人間の救いにかかわる父なる神の奥深いご意志(秘義)が貫かれています。◇ロマ書において、パウロはイエスの死をわたしたちの罪の贖いのための死であると言います。わたしたちの神への背き()にもかかわらず「神の恵みにより無償で義とされる(救われる)のです」(3:24)と。そこにはしかし、キリストの十字架による「血」という神の子の命をもってする尊い犠牲が払われた、そこに神の愛が示されたとパウロは言います。◇神の愛を知らず罪の中にあって生きていた「まだ弱かったころ」のわたしたちのために、既に十字架の出来事が神のご意志によって起こされ、「今や」「わたしたちはキリストの血によって義とされたのです」と。救いはキリストの十字架にある、キリストの復活はそのことを確かなこととします。◇この救いの御業を自分のこととして受け入れて生きるときに、聖霊によって神の愛に導かれて新しく生かされる者とされていきます。キリストを我が内に宿し、聖霊に助けられて生きるとき、苦難をも忍耐し、その中で魂は練られ、「神の栄光にあずかる希望」を与えられる。ですから「カルバリの十字架、わがためなり」です。Ω

 

           JJ 御 心 の ま ま に な し た ま え JJ

2018.3.25      マタイ263646 (松田和夫牧師)

 

 

◇受難週に入りました。エルサレムに入城したイエスがこの週の金曜日に十字架にかかり、日曜日に復活させられる。ここではオリーブ山の西麓ゲッセマネで弟子たちと共に祈られるイエスがおられる。弟子たちは終始眠っていて「目を覚まして」いることかができない。イエスは三度も「ひれ伏して」祈られています。◇尋常ならざるイエスのお姿をわたしたちは見ます。「この杯を過ぎ去らせてください」と。避けたい苦難が自分を襲う時、誰しもがそう祈ります。誰にでもゲッセマネがあります。しかし、「わたしの願いどおりでなく」と、主は父の御心を求めています。ここには父と御子との信頼と愛とが行き交っています。人の子イエス。その苦悩を目の当たりにする時、わたしたちは自分自身の苦難に思い当たります。◇「飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、御心が行われますように」。ここにイエスの父から示された、促された最後の決意が響いています。苦難を、父の御心として、信仰をもって受け容れるときに、初めて神の力が与えられます。その時、苦難から「自由」にされると言ってもいいのです。それは諦めではない。◇むしろ、積極的な姿勢です。主イエスの祈りは常に「神ともにいます」その父なる神への愛と信頼に裏打ちされていました。わたしたちは、そこに「目を覚まして」現実の苦難に、誘惑に勝利する道を示されています。それこそゲッセマネの祈りです。Ω

 

 

 

       召されたところに留まりなさい  JJ

2018.4.22   第一コリント7:17-24(松田和夫牧師)

 

◇この個所には「召されて」という言い方が8回も出ています。「召す」の主語はすべて神さまです。「召す」とは、元来、「呼びかける」という意味の言葉です。教会は「エクレシア」、これは「神に呼ばれ集められた群れ」のことです。神はいつもわたしたちに呼びかけておられる。その声を聞く者がキリスト者です。◇神さまはわたしたちの<からだ>ごとに声をかけ、呼びかけられています。主イエスもみ声をもってわたしたちを招かれた方です。「わたしについてきなさい」と。弟子たちは、その声に身を従わせたのです。パウロも復活のイエスのみ声に出会い、従ったのでした。◇コリントの教会員にパウロは「召された時の身分にとどまっていなさい」と語ります。これは、神の「召し」に従っていなさいということです。それはキリストにあって「救い」に入れられたこと、その救われたことこそが大事なことであり、「割礼」の有無とか、奴隷か自由人かの区別は無いと言うのです。「主によって自由の身にされた」と。◇キリスト者の自由、それは自分がどんなところにあっても、主の内にあれば、何ものにも囚われることがないことです。自分の今の現実がどうであれ、それが「神の召し」であると受け容れるとき、「キリストの奴隷」とされ「キリストのもの」とされる。そこに生きる時にまことの自由がある。「人の奴隷」となることなく、「召されたとき」のままに。それはイエス・キリストの贖いによることですΩ 

 

 

 

     JJ  御言葉はあなたの近くにある  JJ

2018.2.29  ローマ105-13(松田和夫牧師)

 

 

◇見出しに「万人の救い」とあります。イスラエルの民だけでなく異邦人もすべてがキリストに救われる、それは「律法による義」ではなく「信仰による義」によることを言います。律法を実行することで救われるとすれば「自分の義」(3)に走ることになるからです。自分の努力、自分の律法遵守に救いの根拠を置くことになるからです。◇救いはあくまでもキリストにおいて示された神による<罪の贖い>、神の義(救い・まこと)によるからです。それをただ信受することが、わたしたちの<信仰>です。それは、厳しい苦行を強いるものではない。パウロはこれを旧約の申命記のことばを(律法の戒めのことば)を逆用して言っています。「御言葉はあなたの近くにあり」(8)と。◇それはどういうことか。「救い」とは、「イエスがわが主である」「イエスの復活はわがことである」それを、身と心で信じ受け容れ、告白することだと言うのです。なにか特別な実践を積むことによるのではないと。キリストにあって既に差し出されている救いの業をただ信受するだけです。それが「神の召し(救い)の呼びかけ」に対するこちからの応答です。パウロはそれを旧約のヨエル書を用いて「主の名を呼び求めること」(13)と言います。キリストの救い、「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」(18)、だからわたしたちに求められるのは、今あるその声を聞きそれに 応える「主の名を呼び求める」ことです。Ω

 

 

         JJ 苦 し み に あ っ た こ と は JJ

2018.5.27  詩編11965-72(松田和夫牧師)

 

◇詩編119はヘブライ語のアルファベット22文字を頭文字として8節ごとの連になって構成されています。176節。65-72節は、「テト」。各節がこの文字で始まる言葉から書かれています。ここでは「トーヴ」が5つの節の頭にあります。「神の良さ」です。◇神は「良き方」です。けれども、現実は良いことばかりでないことは誰もが知っています。「神の良さ」は、人間が手前勝手に考える「良さ」とは違うのです。そのことを真実知らされることは恵みとなります。◇この詩人は「卑しめられた(苦しみにあった)のは、わたしに良いことでした」と告白しています。神の御言葉(戒め、掟、命令、律法)の真実なることを身をもって知らされたからです。◇わたしちたちは予期せぬ苦しみに出会うとき、神の御言葉に依り頼むことから遠ざかってしまいがちです。眼の前の苦しさ、痛みにすべてを捕らえられてしまう。「痛みは神を遠ざける」と言います。◇苦しみや絶望的な状況のさなかにあって何が命の支えとなるのか。わたしたちはキリストの苦しみ、十字架のキリストに我が身を重ねます。いや、キリストが我が身を背負われていることを思うのです。キリストがわたしたちのために苦しまれたことを思うのです。「己が十字架を取りて我に従え」と言われたキリスト。その足跡に従う。主の御言葉の真実に信を置き、神に委ねることのできる者でありたいのです。なぜなら神は苦しみをも益とされるからです。Ω

 

 

 

      JJ   主の言葉に従って旅立った  JJ

                                              2018.7.1   創世記/121-4(松田和夫牧師)

 

 

 

◇アブラハムは「信仰の父」と呼ばれます。ここにあるのは信仰への招きです。創世記はこの12章にいたって俄かに人間味を帯びた内容となっていきます。イスラエルの始祖、族長たちの信仰の物語がここから始まるのです。父テラがいたカルデアのウルは現在のイラクあたり。メソポタミアの地からテラがハランへと移動し、その地からアブラハムは神のみ声によって「祝福」のへと召し出されます。神による人間の救いの歴史がそこから始まります。◇神の選びは神の自由です。アブラハムに人間的にどこか高尚なものがあったからではない。それは、だれでもが神に召し出され得ることを意味しています。資格も、人物も問わない。神からの声を聞く、迫りを受ける、そのとき、それに従うかどうか。◇神が伴われる幸いなる生涯へと生きるかどうか、神の祝福を受ける人生へと導かれるかどうか、そこで大きく分かれていきます。「生まれ故郷、父の家を離れて」、まことの命の故郷を目指して生きるよう「わたしの示す地に行きなさい」と、主は語りかけ促します。◇神の祝福が約束されている地、それはキリストの福音にあって与えられる永遠の命に生きる神の国へとつながる道行きです。「救い」は十字架と復活の主にあって、まず神のほうから差し出され、人はそれをただ受けていくようにと示されているのです。その意味でアブラハムの聞き従いは、神からの促しによるものでしょう。Ω

 

 

                                JJ あ な た が た が 与 え な さ い JJ

 

       2018.6.24    マタイ/1413-21(松田和夫牧師)

 

 

◇今朝の礼拝は「神学校週間」(6/247/1)を覚えての礼拝です。日本バプテスト連盟所属の神学校(西南、東バプ、九バプ)で学ぶすべての神学生のことを祈りに覚え経済的に支援(全国壮年会連合を中心))を行っていこうとの趣旨で、毎年この時期に設定されています。そのことを覚えてこの箇所を受けたい。◇今朝の箇所と同じ記事は4つの福音書どれもが記しています。それだけ重要であった。ヨハネを除き他の福音書には、「あなたがたが・・与えなさい」とあります。主に従う者たち(弟子たち)に、主はこのように望んでおられる。主イエスがここで与えるのはわずかな食べ物ですが、神の祝福を祈り求める時には、多くの者を満たしていくことを示されます。◇「深く憐れみ」とある。神の憐れみ・愛は、人間の肉の命と霊の命を共に養われる。ヨハネには、このパンは「命のパン」であり、それはキリストのことと言われています。その命は何より神のみ言葉による霊的な命のことです。それは弟子たちから、人々へと、神の祝福のうちにあって増えていく。わたしたちは、そのように主によって用いられていく。◇まさに「御言葉を宣べ伝えなさい」。2000年の歴史を通じて、み言葉は広まってきたのです。「収穫は多いが、働き手が少ない」(9:37)。一人ひとりが、その働き手とされていくのです。各人が主に仕える献身者となる。自分の置かれた場所ごとに於いて主に召されているのです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      JJ  来 た る べ き 方  JJ

2017.12.3        マタイ112-10 (松田和夫牧師)

 

◇アドベント(待降節)に入りました。教会の暦はここから始まります。わたしたちはいつの時も主を待ち望む者たちです。最初期のキリスト者たちは「キリスト、キリスト、主よ、主よ」と言っていたので字名のようにクリスチャンと呼ばれるようになったと言います。◇イスラエルの民は、自分たちを救うメシア(救い主)が来られることを切望していたのです。そして、預言者の口を通して神の約束は告げ知らされて来たのでした。時至ってイエス・キリストが与えられた。バプテスマのヨハネは、神のご計画の中でその道備えをなした重要な人物でした。彼は民たちに厳しくも「悔い改め」を求めた。◇しかし、その求めていたメシア像はどうであったか。ヨハネは自分の弟子たちに「来たるべき方はあなたでしょうか」と尋ねさせます。そこにはかすかな疑念、不審があります。ここで主イエスが語られた言葉は、わたしたちに神の福音がなんであるかを深く思わせます。◇福音の働くところ、それは現実の事実としてそこにあらわされる神の力であり、神の御心そのものです。なにか空想的なものではない。わたしたちの生きる現実そのもの。めしいた目が開かれ、萎えた脚が立ち、死んだように生きている者が命に帰らされる。言葉の真の意味で「貧しき者」たちであるわたしたちに告げられ、与えられる神の恵みです。アドベントを、キリストの恵みに、静かに思いを巡らせる期間としていきましょう。

 

     JJ お の が 日 を 数 え る 知 恵 を JJ

                       2018.9.9     詩編90篇(松田和夫牧師

 

 

◇日本は超高齢社会と言われます。そのことで先行きにさまざまの問題を抱えてもいます。とはいえ、人の寿命は人それぞれです、長い者、短い者。ただ、誰にしても地上の命は一度だけです。短い人生と感じるか、長い人生と感じるか、生きて甲斐ある人生か、生き甲斐のない人生か、それは何が決めるのでしょうか。◇この詩編には人生の短さ、儚さが際立っています。「瞬く間に時は過ぎ」て行き、「人生はため息のように消えうせます」と言っています。たいへん悲観的な捉え方です。それは何処から来るのか。◇この詩人は「人間の罪」と「神の怒り」ということを知っているのです。人生を儚く思うところ、生きる甲斐なき、充実したものとしない根因がそこにあると。罪により神の御心に生きられないところから、生きることの虚しさも出てくる。ですから、この詩人は心の向きを返し、神を「畏れ敬う」ところから「生涯の日を正しく数える知恵」を祈り求め、「わたしたちの宿るところ」である主に「帰ってきてください」と願うのです。◇創造主の恵みと戒めに心から服して生きられる時には、主を喜び、主の喜びが「手の働き」=日々の営みの上にあるのです。わたしたちは、キリストの救いの御業にあってそれを「確かなもの」とされている者たち。「何よりまず神の国と神の義を求めよ」すべてはそこにかかっています。それを求めて生きることが「おのが日を数える知恵」でもありますΩ

 

 

 

 

 

      JJ  生 き て い る 死 者   JJ

                            2018.9.23    ヨハネ16:19-24(松田和夫牧師

 

◇今朝は召天者記念礼拝です。記念するとは、心に深く覚え刻むことです。誰であれ、愛する者に先立たれることほど悲しく辛いことはありません。けれども、キリスト者はそのような時にこそキリストの恵みに与る者たちです。キリストにあって生きる者たちは、「生きる時も死ぬる時もキリストのもの」とされているからです。◇この箇所で主イエスは「その悲しみは喜びに変わる」と、弟子たちに言っています。地上からイエスが去っていくことは「あなたがたのためになる」とも(6)。弟子たちはそのことの意味を主の十字架の死と復活の後に「霊の目」を開かれて知るようになります。自分たちの命がなんであるか、この世に生きることのまことの意義が何であるかを。◇わたしたちもまた、主の愛と贖いの恵みのうちに、今ある命を生きる時に、先に召されて方たちと主にある命のつながりの中に生かされていることを覚えさせられるのです。肉の体は今はなくとも、決して死んで儚く消えたのではないことを。その存在は神の身許にあって、また、わたしたちのうちにあって今なお生きていることを。◇「神は生きている者の神なのだ」と、主は言われています(マルコ12:27)。それ故、わたしたちは先に召された方たちのことを、なお「生きている死者」として思い起こし、その方たちを覚えて生きる時に、まことの神の命のうちにあって生きていることを、キリストにあって生きていることを知るのです。Ω

 

 

 

      JJ 恵 み に よ り 信 仰 に よ っ て JJ

2018.9.30        エフェソ2:1-10(松田和夫牧師

 

 

◇今朝の礼拝で大村啓子(ひろこ)さんがバプテスマを受けられます、おめでとうございます。ここまで導かれた神さまに感謝します。主の晩餐式とバプテスマ式は教会に託されている二つの大切な礼典です。バプテスマについては教会の信仰告白に「わたしたちが罪に死に、新しい命に甦ったことを象徴する」とあります。バプテストの教会では基本的に全身を水に沈めるかたちで表し、これを「浸礼」と呼びます。◇エフェソのこの箇所で言われていることは、人が救われるのは神の「恵み」によることであり、わたしたちの何かの行いによるのではないと言います。「あなたがたは、以前は・・・死んでいた」とあります。それは肉体がではなく、霊的な意味です。神から離れ、その御心を知らず、自分の過ち・罪に従って生きていた、と。それは滅びに向かう命です。◇人は生まれてからそのままの自分を良しとして生きる時、人生につまずき、苦難を背負い込んでしまいます。そこに抜き難い人間の罪があるからです。神はキリスト・イエスの十字架と復活を通して、この罪を贖い、新たな命に生きる道を与えてくださった。◇それは一方的な「神の恵み」の業です。それをただ感謝して受け入れるのが信仰です。救いは「恵みにより信仰によって」です。主に従って生きる者は「暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)者とされます。神の家族の一人として共に主にあって歩んでいきましょう。Ω

 

 

 

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